善人とは

善人とは何か。

親鸞聖人の歎異抄のお言葉に善人なおもって往生する。いわんや悪人をやというお言葉がある。これは善人さえ往生できるのだから、悪人はなおさら往生できる、という意味。

この善人とは、そして、悪人とは何か。

ここで善人とは、善をしている人という意味ではない。自分は善人だと自惚れている人と言うこと。ここで善人だと自惚れているというのはどういうことなのか?

それは自分は善人だと思って、できる所に立って、間違っている人を見下している人のこと。自分は善人だと思っているからこそ、間違ったことをしている人を批判できる。私たちはいつも自分を正しい所に置いて、高い所に立って間違っている人を見下し、批判している。だから、自分が悪人のように見られると腹を立てて反発する。それは誰しも自分の中で正しいと思っていることを実践しているから。誰も自分の信じている善悪の基準が間違っているとは思っていない。自分の常識は間違いないと思って、その常識に照らし合わせて、まわりの人をこの人は善人とか、この人は悪人とか判断している。仮に自分が悪人だと思ったとしても、それは自分の常識に照らし合わせて、悪をしているから、悪人だと思っているだけ。その善悪の基準が間違っているかも知れないとは夢にも思っていない。親鸞聖人がここで善人と言われているのは、自分には正しい善悪の基準を持っていて、その基準に従って、この人は善人とか、この人は悪人とか判断することができると思っている人。みんな自分の常識は間違いないとカンカンに信じているので、そういう意味で、この善人とは、みんなのこと。それに対して悪人とは、自分の信じている常識はもしかしたら、間違っているかも知れないと思っている人。間違っているかも知れないと思うので、まわりの人を見て、この人の態度はおかしいとか、この人のやっていることはいいと上から目線で決めつけることはできない。

私たちは、自分の常識に照らし合わせて、まわりの人を見ている。でも、ほとんどの人は思い込みで見ているので、見ているようで、見ていない。だから、自分が悪人だと思っている人も、本当は尊敬すべき素晴らしい所を持っている人なのかも知れない。ところが、私たちは、一度この人はおかしいとレッテルを張ってしまうと、その相手をなかなか正しくは見てあげることはできなくなる。よく私には尊敬する人は一人もいないと言う人がいるが、それは尊敬できる人は何もかも完璧で、非の打ち所もない人のことだと思っているから。そんな人はどこにもいない。これでは人を尊敬することなんてできない。尊敬するとは、尊敬できる所を一つでも持っていたら、それは尊敬に値する人。人は接してみたら、自分では真似の出来ない良いところを誰もが持っている。それをこの人はこんなに素晴らしい所を持っているのだと尊敬する為には、自分の持っている常識は間違っているかも知れないという所に立たなければ出来ない。人はまわりの人の良いところを認め、尊敬することによって、成長する。誰だって一つは良いところを持っているもの。それを心から認め、尊敬してゆくことによって、尊敬された人は存在価値が上がるし、尊敬した人の心も成長する。そういう意味で、自分のまわりにいる人たちは、自分にとって先生。自分に大切なことを教えて下さる方。そう思って接してゆくことができる。

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