他人の目が怖い

よく他人の目が怖いという人がいる。それは相手が自分のことを批判してくるから怖い。なぜ批判が怖いのか?それは批判してくる人にとって役に立たない存在だと思ったら、その人の目は別の所に向き、自分の存在が消えてしまうから。みんな他人の目の中に存在している。それは他人が見てくれないとまるで自分が存在していないように感じるから。私たちは安定して自分のことを見てくれる存在を求めている。失敗して不安になった時に自分のことを温かく受け止めてくれる親のような存在を求めている。そういう人がいる人はみんなの目が自分の元から離れてしまうことを恐れることはしない。なぜならみんな離れてもこの人だけは自分から離れないと思っているから。そんな人が誰にでも必要。みんな自分の存在を受け止めてくれる親みたいな存在を求めている。その人に出会って何でも話して自分のことを受け止めて欲しいと思っている。そんな親がいなかった人は自分のまわりの人に自分の存在を受け止めて欲しいと求めるようになる。つまり、みんなの目を自分に釘付けにしないと安心できなくなる。そして、誰か一人でも自分の存在を見てくれない人がいたならば、何か自分のことを無視されているように感じて不安になって、その人のことを好きにはなれなくなる。時にはその不安から、不安にさせた相手を責めて、その人が目の前からいなくなったら楽になれると思ったりもする。このようにみんなから見てもらいたいと思うのも、それは誰か一人に自分のことをちゃんと見てもらうことが不安だから。それは自分には価値がないから、自分のことを見てくれないと思っている。だから、価値のある人間になったら自分に自信がついて、こんなに価値のある人間だから自分のことを見てよと言えるんじゃないかと思ってしまう。でも、どんなに価値のあるものを手に入れても、何か心は不安。それは価値のあるものを手に入れたからと言って、まわりの人がその価値を認めて、自分を認めてくれる訳ではないからだ。やっぱり私たちには自分の存在を受け止めてくれる親みたいな存在が必要。その親に対して何でも言える。何でも受け止めてくれる。そんな存在を求めている。それが善知識でなければならない。善知識とは自分の存在を受け止めてくれる存在。その善知識に向く。そうした時に私たちの心は救われる。勝つとか負けるとか、認められるとか認められないとか。損とか得とか。そんなちっぽけな感情から離れることができる。私にはこの人がいる。この人に受け止めてもらったらいい。そう思えるようになる。何でも話を聞いてあげる。その人が自分にとって役に立つとか立たないとかに関係なく、その人のことをいつも見守ってあげる。そういう存在に出会うことによって私たちは他人の目を恐れる気持ちから離れることができるのだと思いました。

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