自分の存在を否定してくる相手と向き合う時、つくづく自分には慈悲の心はないなあと感じます。
そんな時、思うこと。
それは仏様だったら、こんな相手にも幸せにしてあげたいと思って接するのだろうなということです。
仏とは慈悲の塊、人々の苦しみを抜き、幸せにしてあげたいといつも念じているお方。
その仏を念じた時、自分は本当に出来ていない所がいっぱいだなと思わずにはおれません。
それでも目の前の相手に仏様がいる訳ではない。相手が接しているのは、仏様ではなく、生身の自分。
だから、せめて自分の存在を通して仏様の存在を知って頂きたいと思って接する。
そうすると、慈悲の心のない私でも慈悲の心が起きてくる。
そんな時、これは自分の心ではない。仏様から頂いた心だと思って接する。
自分には慈悲の心はないけれど、相手に仏様の慈悲を知ってもらいたいから、慈悲の心が起きる。
そうやって進んでゆくのが仏道なんだと思いました。
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