教行信証解説【11】正信偈-曇鸞大師

教行信証 解説

11.正信偈-曇鸞大師

天親菩薩造論説

天親菩薩は、目に見えない阿弥陀仏の働きを浄土論をつくって説かれた。

※浄土論については、前回解説しましたので、今回は省略します。

帰命無碍光如来

阿弥陀仏のお力によって真実の姿が照らされ知らされた。それは、どんなに煩悩を起こして誤魔化そうとしても、阿弥陀仏のお力は、太陽の光が雲を貫き、その先を明るくするように、煩悩を貫き真実の姿を明らかにしてくれる。どうやっても誤魔化す事が出来ない阿弥陀仏のお力に対して、この天親、心から頭が下がります。

私たちの生きているこの世界は、善い行いは幸せを生み出し、悪い行いは苦しみを生み出す。種まきに応じて厳粛に運命が生み出されていく。だから、私たちのやっている行いが善い種まきなのか、悪い種まきなのか、自分が受けている運命を見れば分かる。どんなに自分が善い行いをしてきたと思っていても、自分の心が今、苦しんでいるとしたら、私のやってきた行いは悪であり、今までの種まきを反省して行いを変えていかなければ、縁が来る度毎に苦しまなければならない。頭では、こんな事は聞けばすぐ分かる事なのだが、現実の私たちの生活では、多くの人が同じ種まきを繰り返し苦しみ続けている。それは、自分が苦しんでいる時は、その苦しみの原因は自分にあるとは思えないからです。苦しい時ほど、自分を苦しめている人を探しては、「この人のせいで私は苦しまなければならい」と怒りをぶつけ、思いを通して「自分は悪くなかった」と自分を納得させたり、欲を起こしては現実を誤魔化して、嫌な事や苦しかった事を無かった事にしたりします。また、自分を責めるだけで具体的に自分のどんな種まきが悪かったのか考えようとはせず、結局、同じ種蒔きを繰り返していきます。誰しも「自分は間違っていない」という我を持っています。そして、この我によって心を支えているために、現実に苦しみがやってきたとしても、「自分は間違っていない」という我が邪魔をして、真実を正しく知る事が出来ないのです。そのために、同じ種まきを繰り返して同じような苦しみの結果を受け続けていく事を、流転輪廻と言います。阿弥陀仏の無碍光は、現実を正しく見る事が出来ず、流転輪廻をしている私たちに真実を知らせ、それによって迷いを断ち切り、因果の道理を明らかにしてくれるのです。その無碍光の働きによって、因果の道理が知らされ、一つ一つの結果を通して反省できるようになった状態を、ここで無碍光如来に帰命したと言われているのです。

依修多羅顕真実

理想の自分に対する執着を破り、現実の自分を受け入れていくには、教えによって真実の善を明らかにしていく必要がある。

どうしたら、阿弥陀仏の無碍の光明に救われる事が出来るか?一番知りたい事であり、関心のある事です。それについて、親鸞聖人は、修多羅(教え)を依り所にして、何が本当の善か、何が本当の悪か、善悪の基準を明らかにしていく事によって、阿弥陀仏に救われる事が出来るのだと教えられています。ここで”顕真実”の真実とは、真実功徳相の事です。真実功徳相とは、何が本当の善で、何が本当の悪か、真理に従った善悪の基準の事です。
私たちは誰しも自分の中で「何が善で、何が悪か。何が正しい事で、何が間違った事か」という善悪の基準を持っています。そして、自分の信じる正しい事を実践する事によって「自分は間違った事はしていないから、生きていても良いんだ」と思って、これを自分の心の支えにして生きています。だから、自分に自信を持って生きてきた人程、自分の信じる正義に従って生きてきた人であり、自分の信じる正義以外認められない人なのです。仏教では、私たちの信じている正義を不実の功徳と言われ、正義に従って頑張れば頑張るほど、苦しまなければなりません。何故なら、仏教では私たちの考えは顛倒と言われ、逆さまな事ばかり考えていると教えられているからです。だから、幸せになりたいと思って動けば動くほど、苦しむという結果がやってくるし、楽になりたいと思いながらいつまでも苦労しなければなりません。だからこそ、仏教では何が本当の善で、何が本当の悪かという事を教えられるのです。それは、真理に基づいた善悪なので、教えに従って実践すればするほど、真理が知らされ、現実の自分が見えてきます。正義は理想の自分を生み出し、その理想の合わない現実の部分を、まるで存在してはいけないかのように否定します。だから、自分の中に理想と合わない所がある事を認められないのです。そのため、現実では、理想の自分とは違う事を一杯しているのに、その現実を認められないので、自分の中では無かった事にしてしまうのです。例えば、「他人に迷惑をかける事は悪だ」と思っている人は、現実には他人に迷惑をかける事を一杯していたとしても、自分の中では無かった事にしてしまったり、「あれは自分がやった事ではなくて、あの人が悪い事をしたからやったんだ。だから、私は悪くないし、迷惑をかけてもいないんだ」と正当化したりします。また、どうしても自分が他人に迷惑をかけた事を認めないといけない時は、「自分ほど悪い人間はいない。私は人間として最低だ。人間のクズだ」と自分を責め始めます。これは一見すると自分の悪を認めているように見えますが、実は、自分の中で悪いもう一人の自分をつくり出して、その人を責める事によって、「自分はそんな悪い事をした人間ではない」と、どこどこまでも理想の自分を守ろうとしてしまうのです。だから、散々自分を責めると「私はそんな悪い人間ではないのに、なぜ悪い人間と見られなければいけないのだ。あの人だってこんな悪い所があるのに、なぜ私だけ悪人と思われなければいけないのだろう。これはおかしい、私は悪くない。あの人の方こそ悪い。私が今、その事を証明してあげる」と今度は周りの人たちを悪く見て責め始めるのです。自分の悪を認めるのは、自分の種まきを反省し、苦しみを少しでも取り除いていくためなのに、それがいつの間にか、理想の自分を守るためにもう一人の自分をつくり出し、責任をそのもう一人の自分に押し付けて責める事によって、自分の悪を無かった事にしていくのです。だからこそ、そんな私に正しい善悪、正しい物事の考え方を教えて、今自分が何をしているのかハッキリさせなければならないのです。私たちは他人のすがたはよく見えますが、自分のすがたは見えていません。自分が理想の自分を守るために反射的に何をしているのか気付けば、現実の自分を少しずつ認めていく事が出来るのです。そのために必要なものが教えなのです。

光闡横超大誓願 広由本願力回向 為度群生彰一心

自分の力で心を浄化する事が出来ない人であっても、阿弥陀仏のお力によって心を浄化させ、浄土まで往生する事が出来る弥陀の本願、それはすべての人を相手にお約束されている事を明らかに教えられた。では、どのようにして私たちの心を浄化させていくのかと言えば、阿弥陀仏のすべての人を浄土へ往生させたいという願いによって、阿弥陀仏の持っておられる功徳を私たちに与えて下さる事によって、私たちの心は浄化され往生する事が出来る。そのお力は広く、どんな所にも、また、どんな人にも働いているから、すべての人が助かる事ができるのです。そして、そのお力を受け取って一心になった人はどんな心になるのか。それを明らかにする事によって、私たちが間違って自分は救われたのだと思う事が無いように私たちの救われる道を明らかにして下さったのです。

一心とは何か?
高僧和讃には、一心について次のように教えられています。

(真宗聖典p236)
信心すなわち一心なり 一心すなわち金剛心 金剛心は菩提心 この心すなわち他力なり
 阿弥陀仏から頂く信心とは、心が一つに定まった事である。それは金剛(ダイヤモンド)の如く堅い決意であり、それは人々を助けてあげたいという心、苦しんでいる人の苦しみや不安、罪悪を自らの功徳によって浄化し、幸せにしてあげたいという心であり、その心を起こして下さるのが阿弥陀仏のお力である。
帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数

阿弥陀仏の浄土から降り注ぐ功徳を一心に受け取れる身となったならば、その時をもって、弥陀の説法を聴聞する人たちの仲間入りをする。

弥陀の説法とは何か?
阿弥陀仏の”阿弥陀”とは、無量という意味であり、この無量とは光明無量と寿命無量、二つのお徳を持たれた仏。それが阿弥陀仏である。ですから、弥陀の説法と言っても、光明無量・寿命無量のお徳によって知らされる真実である。
まず”光明無量”とは、「光明とは智慧の形なり(真宗聖典p621r1)」と教えられているように、光明とは智慧の事であり、智慧とは「真実の智慧は実相の智慧なり(真宗聖典p402l1)」と教えられているように、私たちのありのままのすがたを知らせてくれるのが、智慧であり、光明の働きなのです。私たちは何かを判断する時、自分なりの価値観で何が正しい事なのか、何が間違った事なのかを判断しています。しかし、私たちが大前提にしている価値観こそ、盲目的にこれは正しいと思って信じている事なのです。阿弥陀仏の光明は、真理に対して盲目的であった私たちに教えを通して、真実を見る目を与えてくれるのです。暗闇でいたずらをしても見えませんが、そこに光が差し込むと自分のやってきた事が知らされ、恥ずかしくなってやめるように、智慧が無い間は、正しい事だと信じてやってきた悪も、阿弥陀仏から智慧を頂くと、段々自分は悪い事をしてきたのだなと知らされて恥ずかしくなってやめていきます。仏教では、私たちは悪ばかりを造り続けていると教えられていますが、それは、私たちが智慧が無く愚痴であるからで、何が正しい事か、何が間違っている事かを決める価値観が狂っているからです。だから、正しい事だと思って、仏教で教えられている悪をしているのです。だから、悪が悪だと分かれば悪をやめていくし、善も自然としていくようになります。このように、私たちに真理に基づいた正しい価値基準を与えてくれるのが、阿弥陀仏の光明無量の働きなのです。
次に、寿命無量のお徳によって、どのような真実を知らされるのかと言いますと、阿弥陀仏は無量の寿命を持たれた仏です。その永遠の命を持たれた仏様から見られたら、人間の百年の命など、ほんの一瞬の出来事のように感じられるのではないかと思います。もし、私たちがそんな仏様の目を頂いたら、どうなるのでしょうか。もう、今までと同じように世界を見る事は出来ないと思います。私たちが今求めているお金や財産、地位や名誉も、まだまだ生きられると思うからこそ求めるのです。もし、あとわずかで死んでいかなければならないとしたら、そんなものはもうどうでも良くなります。阿弥陀仏の寿命無量のお徳の働きによって、私の命の儚さが知らされていきます。百年後と言ってもあっという間。百年経ったらどうなるのだろうかと自然に考えてしまいます。今、どんなにお金を稼いだとしても、全部置いていかなければならない。地位を得たとしても、誰かに渡さなければならない。また、どんなに人気者になったとしても、百年経ったら、誰も私の名前は覚えてはいないだろう。今、目の前に確かにある家や車も、百年、千年と過ぎていけば、すべて無くなってしまう。あと少ししたら、「間違いない」と信じて立っているこの大地も、地球ごと無くなってしまう。もちろん、太陽もそう。そう考えると、すべてのものはあって無きが如し。存在しているようで存在していない。永遠の時の流れから見たら、あまりにも儚く、頼りなく、当てにならないものなんだなと感じます。仏様から見た世界を知ってしまったら、もう今までと同じように生きていく事は出来ません。今まで自分が執着していたものもすぐに別れてしまうと思うと、もう執着している事はできなくなります。そして、ヒタヒタと迫ってくる我が身の死をどうしても考えずにはおれなくなります。どんなに「死ぬのはまだ先だ」と死を先送りにしても、自然と「あと十年、二十年と言っても、あっという間かぁ」と過ぎ去っていく時の早さが知らされ、「こうやっているうちに死んでいくのかなぁ」と自分の死を考えてしまいます。「死んだら私はどうなるのだろう。大丈夫かなぁ。恐いなぁ」と不安になってきます。無常が知らされて生きる事は、癌を宣告されて生きるようなもの。心の中では「死にたくない。でも死んでいかなければならない」そんな相矛盾する心がぐるぐると回る。不安なので欲を起こして誤魔化そうとするのだが、その時は誤魔化せても、暫くするとまた無常が知らされる。欲で自分の心を誤魔化した分だけ、不安になって苦しくなる。無常という真実から逃げたい。でも、逃げられない。でも、認めたくない。認められない。だから、また逃げる。どこまで逃げても、最後には、そこには死という真実が待ち構えている。それはまるで、無常という壁に囲まれた部屋の中で、どこかに出口があると思って、果てしなく彷徨っているようなもの。しかも、その部屋は刻一刻と小さくなっていく。その中で出口のない部屋をぐるぐる回りながら出口を探し、やがて出口が無いと知らされる。つまり、私は死ぬのだという事実を受け入れる。人間は必ず死ぬ。あまりにも当たり前の真実。誰でもちょっと考えたら分かる事なのに、誰もその真実を受け入れていない。阿弥陀仏は、そんな私たちに無常という真実を見せつける。阿弥陀仏の寿命無量の働きによって命が限りない程短いものだと知らされていく。そして、無常という真実を受け入れた時、残された時間をどう使えば悔いなき人生となるか考えるようになる。過ぎ去った時間は戻っては来ない。あまりにも当たり前の事なのだが、その当然の事実を意識して生きている人は少ない。
思えば私もどれだけ時間を無駄に使ってきたか知れない。確かに、欲を満たす事は楽しい事だが、欲を満たしている間はどれだけ時間が過ぎていても気付かない。まるで、自分の人生から欲を満たした時間が消えてしまったかのように、自分の中に何も残らない。もちろん、自分が死ぬなんて事は考えず、いつまでも生きられると思っていた時には、時間がどれだけ無駄に過ぎようとも何とも思わなかったし、欲を満たす事は楽しかったので、自分の中で充実した時間の使い方だと思っていた。小学生の時はテレビゲームにハマっていたから、いつも考える事は「早く休みになって、ゲームがしたい」それだけだったように感じます。そして、それ以外の時間は、つまらない時間だと思って、「早く過ぎてくれればいいな」と思っていた。時間に良い時間と悪い時間がある訳ではない。みんな自分に与えられた大事な時間のはずなのに、私は欲を満たす時間以外はつまらない時間だと思って早く過ぎてくれたらいいと思っていました。そして、休みに入ったらゲームをして欲を満たす。そんな日々を過ごしていました。だから、欲を満たせない間は、つまらない時間と感じてダラダラ過ごすし、欲を満たしている時間は楽しいけれど何も残らない。だから、私の人生は振り返ってみると、何も残っていないのです。確かに生きて時間を過ごしてきたはずなのに、私の中に何も残ってはいませんでした。唯一心の中に残っている事は、苦しかった事ばかり。あの時の私は時間に流されていただけで生きようとしていなかったのだと思います。そんな私を変えたものが仏法、阿弥陀仏の力でした。特に、阿弥陀仏の寿命無量の働きで、今まで永遠に続くように感じてきた時間に必ず終わりが来る事が知らされました。今は若くて元気かもしれないが、年をとったら目も薄くなって、物が良く見えなくなる。また、体も自由に動かなくなる。今は若いからと言ってなんとなく過ごしていたら、年を取って体が思うように動かなくなって後悔する事になる。「人生、やりたい事は後回しにする事なく、今からやっておかなければ」そう感じるようになりました。それでも、その時のやりたい事は欲を満たす事ばかりで、欲を満たせば満足できる。そう思っていました。しかし、いろいろ楽しい事をして感じたのは、何とも言えないような虚しい気持ちでした。この欲を満たす事によって、自分は何か変わるのか?欲を満たす前と何も変わらないじゃないか。ただ、疲れが残っただけ。出したらしまう。使ったら片付ける。開けたら閉める。物を出したり、使ったりする時は楽しいけれど、使い終わって片付けてみると、そこには以前と何も変わらない風景が広がっている。まるで、自分がそこにいなかったかのように、何も変わらない世界がそこに存在している。自分がいるようでいない。その真実をみんな知りたくないから、片付けるのが嫌なのだと思う。せっかく色々やったのに、片付けてしまうと何も残らない。その真実を見たくないから片付けられないのだと思う。欲を満たすためにした事は何も残らない。それは、仏教から言ったら何もしていないからなんだと思いまいす。何も意味のない事に、私たちは膨大な時間とお金を費やしている。だから、欲を満たす事は虚しいんだと思います。だけど、人生まだまだあると思っていた時には、ただ欲を満たす事が楽しくて、時間が過ぎ去っていく事を何とも思っていませんでした。寿命無量の働きに照らされて、人間は初めて自分の命の儚さが知らされて、人生を真面目に生きようと思うのです。
では、真面目に生きるとは、何でしょうか?それは、未来へとつながる事をしていく。いろいろやってきましたが、これが自分なりに答えだと思うことです。例えば、今、自分と縁のあった人を大事にしていく。何か自分の思い通りにならないことがあった時に、相手との関係を切るのは簡単ですが、そのように人間関係を切っていったら、自分には何も残りません。たとえ、時間がかかったとしても、自分が傷付いたとしても、相手との関係を修復していく。その積み重ねによって、人間関係は深まっていくのだと思います。そして、それによって人の輪を広げていく。自分と周りの人たちとの関係をよくするだけではなくて、その周りの人たちにも人間関係を大事にしていくように働きかけていく。本音で語ることの出来ない建前の世界の中で、腹を割って話し合える、信じられる人間関係、そんな人の輪を育てていく。それって、楽しい事だし、価値のある事だなって思うのです。昨日と今日と変わらない世の中で、少しずつだけど自分の努力のよって変わっていくところがある。それってとても嬉しい事だなと思うのです。また他には、自分を成長させていく、これも価値のある事だと思います。それは筋肉をつけていったり、知識を増やしていったりして、一時的に力をつけて自信を持ってもやがては衰えて失ってしまうものではなくて、いつまでも変わらず輝き続ける徳を身に付ける。例えば、落ち着いた穏やかな人になるとか、思いやりのある優しい人になるとか、過ちを犯したら心から素直に謝れる人になるとか、また、苦しい時にも他人のせいにせず、自分の過ちを反省して正していける人になるとか、また、きれい好きで物を大事に丁寧に扱える人になるとか、それにいつも丁寧できれいな字が書ける人もいいですよね。また、決して他人を見下さず謙虚な人も尊敬でします。そのような徳を身に付けた人は誰でも尊敬しますし、その人に少しでも近付きたいと思います。そのように未来へとつながるように生きていく、それはとても価値のある生き方だと思いますし、真面目な生き方だと思います。

得至蓮華蔵世界 即証真如法性身

泥々の真っ黒な泥の中で蓮華の花がその泥に染まらず真っ白な花を咲かせるように、阿弥陀仏のお力によって、この煩悩に穢れた世界の中で、その煩悩に染まらず、世界をあるがままに見える浄らかな目を頂いたならば、その目によって、この世界を貫く不変の真理をさとる事ができる。その真理とは、この世界は無常でありながら、常住であり、すべてのものはやがて自分から離れてしまうようで、離れていくことなく留まり続けているのである。ここで、失うものとは、形であり、留まるものとは、それを貫く真理である。
このことを譬えるならば、目の前の困難にぶつかって苦しんでいる人にとって、今の苦しみさえ乗り越えたら楽になれると思っているが、実際は目の前の苦しみを乗り越えても、その先にはまた別の苦しみが待っているだけで、苦しんでいる事は変わらない。この人にとって、目の前の一つ一つの苦しみは形であり、確かに自分にやってくる苦しみは一つ一つ違うものだが、苦しみ続けている事には変わりはない。私たちは、目の前にやってきている困難が私を苦しめているものだと思っているが、仏様の目には、その人に困難がやってきているかどうかに関係なく、苦しんでいるように映る。もちろん、誰もが苦しんでいる訳ではないが、早く楽になりたいと思って生きている人は、そう思うのは、今が苦しいからであり、その苦しみの原因を正しく知らなければ目の前の苦しみをいくら乗り越えても、「越えなばと 思いし峰に 来てみれば なお行く先は 山路なりけり」で、果てしなく苦しみは続く。世の中の人は大学に合格すれば楽になれると思っているが、大学に入ったら入ったで、環境は変わっても、また別の苦しみがやってくる。じゃあ大学を卒業したら楽になれるかというと、今度は会社に入って苦しまなければならない。そんな人は、結婚したとしても、子供が出来たとしても、苦は変えるだけで、果てしなく続く。それは、その人自身が苦しむ因を持っているからであり、その因を変えない限り、どんなに思い通りに物事が進んだとしても、その環境の中でまた苦しむのである。この場合、目の雨にやってくる一つ一つの苦しみは無常のものであり、次々と移り変わっていくが、どんなに環境が変わったとしても、その人の心は常に苦しんでいる事には、変わりはない。これも常住のものである。私たちは智慧がないために、目の前の苦しみさえ乗り越えたら楽になれると思っているが、仏様の眼か私たちの姿を見たならば、果てしなき苦しみの道をいつか楽になれると進んでいるのが、見えるだろうと思う。智慧がないために目の前のことしか見えず、無常のものを問題にして、常住のものが見えない。仏様には智慧があるので、先を見通し、常住のものが分かるので、目の前の一つ一つの無常のものは問題にならない。仏様の智慧の眼によって常住のものをさとり、その因果関係を明らかにして説かれたものが仏教で教えられる因果の道理なのです。

遊煩悩林現神通 入生死薗示応化

林の中で木々に隠れている鹿を、まるでその木々が邪魔にならないかのように仕留めるように、煩悩が心の中で沸き上がり正しい智慧が見えなくても、阿弥陀仏のお力、他力によって、様々な神通力が起こり、人々を自由自在に救うことができる。

だから、煩悩に穢れた生死の薗の中に入っても、その煩悩に染まることなく、一人一人にあった方法で導いて下さるのです。

・遊ぶとは?
この遊ぶとはどういう意味なのでしょうか。それについて教行信証では次のように教えられています。

(真宗聖典p409)
〈遊戯〉に二つの義あり。一つには自在の義。菩薩衆生を度す。たとへば獅子の鹿を搏つに、所為はばからざるがごときは、遊戯するがごとし。二つには度無所度の義なり。菩薩衆生を観ずるに、畢竟じて所有なし。無量の衆生を度すといへども、実に一衆生として滅度を得るものなし。衆生を度すと示すこと遊戯するがごとし。〈本願力〉といふは、大菩薩、法身のなかにおいて、つねに三昧にましまして、種々の身、種々の神通、種々の説法を現ずることを示すこと、みな本願力より起るをもつてなり。たとへば阿修羅の琴の鼓するものなしといへども、しかも音曲自然なるがごとし。

 遊煩悩林現神通の「遊ぶ」とは、どんな意味なのでしょうか?これには、二つ意味があります。
一つ目は、自由自在に人を導くことができるという意味です。それは、まるで獅子が鹿を捕まえるのに苦労することなく、思い通りに捕まえることができるように、菩薩もまた、阿弥陀仏のお力によって自由自在に説法して人々を導くことができる、これが一つ目の意味です。
次に二つ目は、どれだけ人々を救ったとしても、自分の中に「これだけ救ったのだ」という気持ちが残りません。だから、見返りを期待することなく気持ちよく他人の為に尽くす事ができるのです。これが二つ目の意味です。
この二つの力は阿弥陀仏のお力、他力によって為すことができます。それは、菩薩が弥陀三昧に入ると様々な神通力を頂き、その力によって相手の心に合わせて、自由自在に教えを説き導くことができる、ちょうど阿修羅の持っている琴は、奏でる人がいなくても自然に鳴り響くように、自分の頭に自然と教えが浮かび、まるで歌うように教えを説くことが出来るのです。

では、ここで言われる神通力とはどんな力でしょうか?神通力とは、人智を超えた一種の超能力のことです。超能力と言ってもスプーンを曲げたり、空を飛んだりする力ではなくて、あくまでも人々の苦しみを取り除いてゆくために必要なことを知る力です。仏教では、この神通力を五神通と言われて、五つの力があると教えられています。その五つとは、宿命通、天眼通、天耳通、他心通、神速通の五つです。
まず、宿命通とは、相手の肉体に宿っている命を見ることが出来る力です。不思議なもので、この命が分かれば、その人が過去にどんな風に、どんな環境で生きてきたのか、また、現在、どんなことを思い、何を話し、どんな振る舞いをしているのか、知ることができます。また、そこから、その人の未来の運命も見通すことができます。この命は、その人の肉体ににじみ溢れてくるもので、どんなに隠そうとしても隠すことは出来ません。この肉体に宿った命を見ることができる力、それが宿命通です。この宿命通から、次の天眼通、天耳通、他心通が生み出されます。
二つ目の天眼通とは、相手の宿命を見ることによって、その人の日頃の行いを知ることができる力です。あくまでも見えるのは、習慣となっている振舞いだけであり、細かく相手のことを知ることはできません。
三つ目の天耳通とは、相手の宿命を見ることによって、その人が日頃どんなことを話しているか知ることができる力です。これも天眼通と同じように、その人の習慣となったものだけであり、それ以外の細かい言動を知ることはできません。
四つ目の他心通とは、相手の宿命を見ることによって、その人の習慣となった思考パターンを知ることができる力です。
最後の神速通とは、相手の苦しみを取り除く教えを瞬時に知ることができる力です。今で言ったならばインターネットの検索みたいなものだと言えるのかも知れません。必要な情報を入れて検索をしたら、瞬時にして知りたい情報が出てくる。昔の人から見たらまるで誰がこんなにも速く情報を探しているのだろうと思うのかもしれません。同じように、仏様に質問をしたならば瞬時にして必要な教えを話して下さる、きっと神のような足を持たれて仏の世界を回られて教えを知られているに違いない、とこのような神足通という名前を付けられたのだと思います。

本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼 三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦

この親鸞が師と仰ぐ曇鸞大師は、中国の梁の国の皇帝が常に曇鸞大師のおられる方角に向かって、菩薩様と深々と頭を下げるほどの方でありました。そんな素晴らしい方でありましたが、若きときは仏教の教えである無常が分からず、肉体の命を延ばすことこそ、最も大事なことであると考え、当時、長生きの仕方を教えていた外道にはまり、道を踏み外しそうになったことがありました。しかし、それを三蔵の菩提流支によって諭されました。
「どんなに長生きしたところで永遠に生きられる訳ではない、お前のやっていることはとりあえず長生きをすることによって自分の死を考えることを先伸ばしにしているだけだ。どんなに長生きをしたところで無常の身であることには変わらない。私たちが求めているのは、そんな無常の肉体を延ばすことではない。たとえ肉体が滅んでも変わらない永遠の命を手に入れることだ。そして、その方法について教えられているのが観無量寿経の教えなのだ」
この菩提流支の言葉により、曇鸞大師は今まで学んできた外道の教えを焼き捨て、永遠の命を知る為に観無量寿経の教えを求められるようになったのです。

・三蔵とは?
三蔵と言えば、日本でもお馴染みの猿と豚とカッパの化け物と共に三蔵法師が天竺まで旅をする西遊記という物語が有名ですが、この三蔵法師の「三蔵」とは、経(仏の言葉)、律(真理を悟る為の実践方法)、論(抽象的な仏の言葉を高僧方がより具体的に解説されたもの)この三つに精通された方のことを尊敬して三蔵と言われます

・観無量寿経の教えとは?
無量寿仏を観る為の方法について教えられたものが観無量寿経の教え。

・なぜ私たちは無量寿仏を見る必要があるのか?
それは、無量寿仏の功徳には、私たちを永遠の命にする力があるからです。ここでいう永遠の命とは、肉体の命が永遠になるのではなくて、肉体に宿る永遠の命のことです。私たちは自分に暗い為に鏡に映る自分の姿は見ることはできても、その肉体に宿る命を見ることは出来ません。その肉体に宿る命の存在に気づかせる力、それが無量寿仏の功徳です。人間にとって死ほど大きな問題はありません。死はすべての別れであると同時に自分が自分だと思っていた肉体との別れでもあります。人は死ぬ、肉体も滅ぶ。では、私はどうなってしまうのか?死んだらどこへゆくのか?全く分からない。お先真っ暗な状態が、私たち一人一人が立たされている現実なのです。私たちは、この不安を誰しも抱えながら生きています。そして、決してこの問題と向き合うことなく、考えることのないまま人生が終わってしまうのです。仏教とは、この問題に対し、真正面からぶつかり、その答えを教えられているのです。そして、その道程が教えられているのが、この観無量寿経の教えなのです。
では、次に具体的に観無量寿経にはどんなことが教えられているのかと言いますと、定善と散善が教えられています。
定善とは、無量寿仏を観ることが出来た人が、その無量寿仏の功徳を受けて、どのようにして煩悩から離れ仏の悟りを開いてゆくか。その道程について十三通りに分けて教えられたものです。
次に散善とは、まだ煩悩が逆巻く為に心が散り乱れ無量寿仏の働きを受けることが出来ない人が、どうしたら煩悩を断ち切り無量寿仏を観ることができるのか、それについて教えられたものです。その実践方法が、三福です。

・三福とは?
三福とは、三種類の善のことで、
世福(世間善)
戒福(小乗善)
行福(大乗善)
この三つを三福と言います、
初めの世福とは、世の中で一般的に善だと言われているものです。具体的には、
・両親に孝行すること
・先生や目上の人を敬うこと
・慈悲の心で相手の心を傷つけないように接すること
・仏教で教えられるところの十悪をやめること
以上を世福と言います。
次に戒福とは、仏教の教えを理解して、心の穢れを少なくするために八正道を実践することです。
最後に行福とは、苦しみは我執から生み出されると知らされた人が、その苦しみから離れるために六度万行を実践することです。
それでは、世福、戒福、行福はそれぞれ何の目的で実践するのでしょうか?
最初の世福は、世の中で一般的に善と言われているもので、これを実践することで、周りの人から責められなくなります。私たちは日々、「他人から責められたらどうしよう」とビクビクしながら他人から責められないように気を張りながら生きています。そして、他人から責められない為に自分の信じる正義を実践して、鎧のように自分を守ろうとしたり、また、他人を責めることによって自分を守ろうとしたりします。しかし、そうやって自分を守りながらも、心の底ではいつも「他人から責められるのではないか」とビクビクしながら生きています。これでは安心して生きてゆくことは出来ません。そこで、「他人から責められるのではないか」という不安から離れ安心して生きてゆく為に教えられているのが世福です。まずは境界線を守る事です。それが出来なければ、生きること自体が不安となってしまい、「本当の苦しみとは何か」と考えることはとても出来ません。だから、自分を守る為に世福を実践するのです。ですから、この四つに限らず、境界線を守る為に必要なことは世福に入ります。この世福を実践することによって、今まで他人にとらわれていた心がなくなり、自分の心に目が向くようになります。
そして、次に教えられているのが、戒福です。戒福とは、自分の心に初めて目を向けるようになった人が、苦しみとは自分の心が傷つくことによって生み出されると知らされ、心を傷つけないように心がけてゆく段階を言います。私たちが見ている世界は、実際の世界を目で見て、心の中で再現した心の中の世界です、これを仏教では唯識と言います。だから、唯識の中で他人だと思っているものは、それは他人ではなくて、自分の心が生み出したものです。だから、他人だと思ってその人を責めれば、自分の心が傷ついてしまいます。また、他人だと思って馬鹿にしたら、自分が馬鹿にされたように感じますし、自分とは関係ないと思って他人を放っておけば、自分が見捨てられたように感じます。すべては心の中で起きている映像の変化でしかありません。これが唯識です。この唯識が段々と知らされて、他人も自分も傷つけないようにしようすることが戒福です。
最後に行福とは、どんなに心を傷つけないようにして、苦しみを取り除いたとしても、最期には死が待っています。人は生まれたからには死んでゆかなければなりません。それは、どんなものも避けられない運命なのです。肉体を失うとは、自分が今まで執着していたものをすべて失うということです。その苦しみはたとえようもない苦しみであり、私たちにとって根本的かつ最大の苦しみなのです。その苦しみを解決する為には、ただ我執から離れるしかありません。その為に我がついたものをひたすら他に捧げていく過程、それが行福です。

天親菩薩論註解 報土因果顕誓願 往還回向由他力

曇鸞大師は天親菩薩の書かれた浄土論の意味を明らかにするために、註釈を入れられ解釈されました。それによって、私たちが浄土に往生できるのは、すべて阿弥陀仏の本願力によってであることを明らかになりました。その本願力、他力の働きによって、私たちが浄土へ往生することができ、そして、浄土へ往生したものが、その浄土の幸せに執着することなく、苦しみの中へと飛び込み、人々の苦しみを取り除いてゆくことができるのです。

浄土に往生できるのは、阿弥陀仏の本願力が働いているからです。当たり前のようですが、曇鸞大師は、私たちに浄土へ往生させようとする力が働いていることを明らかにされました。では、その本願力が私たちに働いているのなら、私たちは誰しも浄土へ往生で為にきるはずです。しかし、実際は「浄土へは往きやすくして人なし」と言われますように、力は働いていても、その力を観ることが出来ない私たちは、浄土へ往生することはできないのです。

正定之因唯信心

では、どうすれば阿弥陀仏の本願力を受けて浄土へ往生することができるのでしょうか?それは、阿弥陀仏の働きによって無明を破って頂き、信心を頂けば、浄土へ往生する事が出来るのです。

・信心とは、何か?
信心とは、一言で言うならば、阿弥陀仏のお力によって正直な心にさせられた心を言います。私たちは誰しも心に殻をつけて、人に対して強く見せようとしたり、いい人だと思われる為に格好つけたりしています。これを仏教では「外に賢善精進の相を現ずる」と言われ、いつも他人が気になり、他人と自分を比べて上に立とうとしています。なぜそんなことをしてしまうのでしょうか?それは、他人よりも上に立っていないと不安だからです。譬えるなら、私たちは卵のような存在です。硬い殻によって、自分の心を守っていなければ、不安で生きてゆけません。この殻を無理に割ってしまうと、卵の中から黄身がどろっと出てしまうように、むき出しの弱い心がさらけ出されてしまいます。だから、阿弥陀仏は私たちの弱い心を温め成長させる事によって、強く見せなくても正直でおれる心にして下されるのです。これが私たちの心の中に信心が生まれてくるということです。この信心は現実を受け入れさせて、この世の本当の姿を明らかにしてくれます。その現実とは、結局は、どこへ行っても、何を買っても、何かを手に入れたとしても、私の本質は何も変わらないということです。私の幸せも苦しみも心から生み出されている。心で思うこと、それが私の心に影響を与え、私を幸せにも不幸にもさせるのだということです。この心に目を向けさせてゆく働きが信心にはあるのです。その信心の働きによって、心を正し、私たちを正定の身に導いてゆくのです。

惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃 必至無量光明土 諸有衆生皆普化

煩悩に染まり、目が曇って真実が見えなくても、阿弥陀仏のお力によって真実を見る目を頂いたならば、浄土という世界に往くことなく、この世界がそのまま浄土へと変わります。そして、浄土の働きによって、現実をありのままに見ることが出来るので、一切の不安から離れた心の境地へと向かって進んでゆくことが出来るのです。これが、煩悩から離れられないものが救われてゆく道なのです。

・浄土とはどんな世界なのか?
浄土とは、一般的に苦しみのない幸せな世界だと思われています。実際は、そんなお花畑があって蝶々が飛んでいるような世界ではありません。浄土とは、その字が示す通り、浄らかな世界のことで、この浄らかとは、現実を自分の都合によってねじ曲げて見ることなく、ありのままの見えることを言います。私たちは自分にとって都合の悪い現実から目を反らし、自分の殻にとじ込もってしまう為に、現実が突きつけられる度に苦しまなければなりません。どんなに自分にとって都合の悪い現実であっても、それもまた、現実だと苦しくても受け止めることによって、どんな苦しみも苦しみではなくなります。つまり、浄土とは、私たちに現実を見せつけ受け入れさせてくれる世界なのです。

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