弥陀の大悲ふかければ

弥陀の大悲ふかければ 仏智の不思議をあらはして 変成男子の願をたて 女人成仏ちかひたり
阿弥陀仏の大悲は深いので、罪の重い女人性を持った人でも、その人を見捨てず心を支えてゆくので、女人性を持った人でも成仏することができる。
ここで女人性とは何かと言えば、この人生は自分に責任があると思って生きているのではなく、誰かに責められたら、あの人がああ言ったからとか、この人が悪いのだと、いつも責められないように生きている人のことである。このような人は、例えば心でうどんが食べたいと思っても、みんながカレーが食べたいと言ったら、自分が食べたいものを言わずに、私もカレーが食べたいと言います。一見すると、みんなに合わせているいい人のように思いますが、このようにしていつも自分の思っていることを言わずに相手に合わせているばかりなので、自分の人生を自分の意志で生きることはありません。だから、いつも何かあったら、誰かのせいにしてしまい、自分が悪かったのだと反省することがないのです。たから、仏教の因果の道理が分からず、みんなから責められなければいいんだと思って生きているだけなのです。
このような人は本当に支えてくれる人と出会うと、何か思い通りにならないことにぶつかる度ごとに、あなたがこのようにしないからこんなことになったんだと否定してきます。自分は否定されることが嫌な癖に自分が否定する時は思いっきりします。だから、この人と付き合う人は自分は悪くなくても、何か事が起きる度に責められ、その度に謝らなければなりません。そんな人はもう付き合い切れないと責め返すと、見捨てられたくないから、私のことを大事にしてくれます。だから、これでいいんだと、相手を変えてあげたいとは思わなくなります。
しかし、阿弥陀仏の大悲は深いので、このように女人性を持っている人であっても、自ら責められてもいいと思って、この人を支えていきます。支えてあげるとは、思い通りにならないことがある度に責められ、頭を下げること。そうやって、相手はこちらの欠点を上から目線で指摘して責めてくる。しかし、その人を見ると、こんなことも出来てないと自分を棚に上げてよく言えるなと思ってしまう。それでも、頭を下げてゆく。だから、このような人と付き合うと、いつも自分を正さなければならず、この人はどんどんと何もしなくなってゆきます。こんなことでいいのかと責められた所を直していって、自分が徳が身につき、素晴らしい人間になったとしても、この人は私のことを素晴らしい人と思ってくれることはなく、大した人間ではないといつも思っている。だから、大事にしてくれることはなく、簡単に見捨ててくるような人に対しては大事にする。こんなことを見せられても、弥陀の大悲は深いから、この人を幸せにしてあげたいと支えてゆく。このような努力をしてあげるので、女人性を持った人も成仏することができるのです。

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