弥陀の名号となえつつ

弥陀の名号となえつつ 信心まことにうる人は 憶念の心常にして 仏恩報ずるおもいあり
弥陀の名号となえつつ、信心まことにうる人はというのは、弥陀の名号である南無阿弥陀仏を唱えている人の中で、真の信心を得た人がいるんだということです。
これは念仏を唱えたら信心を得ることができるという意味ではありません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏を唱えている人の中には、真の信心を得た人もいれば、まだ信心を得ていない人もいる。
では、この違いとは何か?
それは、真の信心を得た人というのは、憶念の心が常にあるんだ、ということです。
つまり、阿弥陀仏に救われたかどうか、それは憶念の心があるかどうかということです。
では、憶念の心とは何か?
この憶念の憶とは、しばしば思うこと。そして、念とは、ずっと思い続けること。じゃあ、何を思うのかと言えば、阿弥陀仏の御心。つまり、憶念とは、阿弥陀仏のことをしばしば思い続けることであり、常に思い続けることです。
奥さんが旦那さんが出張に行く時、「君のことをいつも思い出すようにするよ」と言った時、奥さんが思い出すようでは思いが薄い、思い出さずに忘れずにして欲しいと言った話がありますが、私たちはどんなに一つのことを思い続けるようにしても、すぐに欲を起こして、別のことに心が移ってしまい、心を一つのことに留めておくことはできません。
だからこそ、阿弥陀仏に救われたいと思う人は、阿弥陀仏のことをいつも忘れないように念仏を絶えず唱え続けるのです。
だから、念仏をこれだけ唱えたから、もう念仏を唱えなくてもいいということではないのです。念仏を唱えるのは、阿弥陀仏のことをいつも忘れないように、思い続けてゆく為であり、阿弥陀仏のことをいつも憶念することができたならば、それが真の信心を得た人だからです。
でも、私たちはどんなに念仏を唱えて阿弥陀仏のことを思い続けていようと思っても、不思議なことに、念仏を唱えながら、心は別のことを考えている。阿弥陀仏一つを思い続けるどころか、しばらくの間も阿弥陀仏を思うことができない自分が知らされます。
そんな私が阿弥陀仏のことを常に思い続けることなんてできるのであろうかと思いますが、真の信心を得るということは、阿弥陀仏がいつも私のことをそばにいて思い続けて下される身になること。
 
私は阿弥陀仏のことを忘れがちですが、阿弥陀仏は私のことをいつも思い続けて下される。ああ、阿弥陀仏は私のそばでいつも私のことを見ておられるな。それが寝ても覚めてもずっと感じられる。これが憶念の念なのです。だから、私も阿弥陀仏のことをしばしば思う。これが憶。
憶念とは、阿弥陀仏が私の心を常に照らし、私の心で今私がどんなことを思っているか、どんな心が起きたかを常に知らせてくれる。いつもそばにいて、私から離れることがないのが阿弥陀仏。これが念であり、だからこそ、阿弥陀仏のことを私はしばしば思う。
じゃあ、なぜ阿弥陀仏のことを思うのか?
それは阿弥陀仏の御心が知らされたからこそ、私も阿弥陀仏のように他人に接してゆかなければと思うから。
世界広しと言えども、阿弥陀仏の御心を知らされた人はほんの僅かしかいない。だからこそ、知らされた人がどんな人をも見捨てない、常に私と共にいて下される阿弥陀仏がましますことを知ってもらいたい。知ってもらいたいからこそ、相手は阿弥陀仏の御心が分からないから、私が阿弥陀仏が私にして下されたように、私も苦しんでいる相手に対し、阿弥陀仏のように接してゆく。そう接してゆくと、苦しいことがあると簡単に相手のことを見捨てようとしている自分がいることに気づく。
じゃあ、切ったらいいか。でも、切ったら、相手は絶対に見捨てない方がおられることを信じることができない。阿弥陀仏がおられることは私にしか分からないことだから、私がやるしかない。誰かがやってくれる訳じゃない。だから、やるしかない。でも、できない。そんな時、阿弥陀仏のことを思わずにはおれなくなる。これが憶。
私が阿弥陀仏のように接しようと思うからこそ、阿弥陀仏のことを思わずにおれなくなり、同時に、阿弥陀仏のことを信じられるようになるまで、どれだけ長い間心をかけてくれたかと思うと、阿弥陀仏の深きご恩が知らされ、やっぱり私がやるしかないとファイトが湧いてくる。
相手が信じられるようになるまで、どこどこまでも付き合ってゆくぞ。その為に自分の心を反省し、少しでも阿弥陀仏の御心に近づいてゆくぞと努力を続けてゆくようになる。
これが仏恩報ずるおもいありなのです。

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