光明照らしたえざれば

光明照らしてたえざれば 不断光仏となづけたり 聞光力のゆへなれば 心不断にて往生す
阿弥陀仏の光明は私たちを照らし途切れることがないから、阿弥陀仏のことを不断光仏と言うのです。
往生する為には、阿弥陀仏に対しての思いが絶えることなく、常に思い続けていることが必要です。そして、阿弥陀仏なことを念ずる為に私たちは阿弥陀仏の慈悲を自らも実践し、相手から冷たくされたとしても、温かい思いを与え続けてゆかなければなりません。
ところが、実際に温かい思いでまわりの人に接しようと思うと、始めはできても、だんだん不満が起きてきて、ちょっとのことでイライラして、相手に当たってしまうことも起きてきます。
そんな時、私の心は阿弥陀仏のことを考えているのではなく、自分の欲しか考えていません。このように阿弥陀仏のことを常に念じていなければならないのに、念じる気持ちが続かない私たちだからこそ、聴聞しなければならないのです。
仏法を聞くと自分のことしか考えていなかった自分の心を反省し、また温かい思いを起こしてゆこうと思うようになります。そして、しばらくすると、また、自分のことしか考えなくなるから、また、聴聞して、相手のことを大事に思えるようにする。そうやって、聴聞を続けてゆくからこそ、私たちは自分の心を阿弥陀仏のように変えてゆき、往生することができるのです。
阿弥陀仏の光明は阿弥陀仏のことを念じなければならないと思いながら、それができない私たちだと知らせて、阿弥陀仏のことを常に念ずることができるように絶え間なく聴聞させて下さるのです。
これが不断光なのです。

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