教行信証13 信巻
 
 

教行信証 信巻

信巻 [別序]

(真宗聖典p319)
それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し。ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家・釈家の宗義を披閲す。広く三経の光沢を蒙りて、ことに一心の華文を開く。しばらく疑問を至してつひに明証を出す。まことに仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥ぢず。浄邦を欣ふ徒衆、穢域を厭ふ庶類、取捨を加ふといへども毀謗を生ずることなかれとなり。

(意味)
今まで仏法を学んで知らされたことは、私たちの心に信楽の心が起きるのは、阿弥陀仏の本願力によって心を支えて頂き、また、善知識が仏教の教えを正しく伝えて下さるからである。ところが、そのみ心が分からない僧侶も在家の人も、自分の力で悟りを開くことができると自惚れて、善知識を探そうとはせず、自分の力で求めている。だから、求道心が続かず悟りを開くことができないのです。この親鸞も、我が身に頂いた信心の働きによって、煩悩から離れてゆくには他力の信心の働きがなければできないことが知らされ、そのみ心を高僧方の教えを通して明らかにした。そして、その信心一つ教えられたのが阿弥陀仏の本願であることも知らされた。どうしたら煩悩から離れることができるのか?親鸞も分からず、悩み続けた問題だったが、やっとその答えも出た。つまり、それは阿弥陀仏から他力の信心を頂く以外にはないということである。今から書くことは多くの人から非難をされることだと思うが、受けし阿弥陀仏の御恩に報いる為に非難を恐れず敢えて書きたいと思う。浄土に往生し穢土から離れたいと思っている人は、この文章を読んで、字面を問題にして非難するのではなく、ここに何が書いてあるか、その心を是非、理解して頂きたい。

信巻 [二・真実信]

(真宗聖典p320)
つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心は、すなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。
この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。
しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。
たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。

(意味)
慎んで阿弥陀仏がどのように私たちを浄土まで連れて行ってくだされるのかと言えば、それは、阿弥陀仏から頂く信心の働きによって、私たちは煩悩から離れ、浄土に往生することができるのです。この阿弥陀仏から頂く信心を別の言葉でいうのなら、私を生死流転の輪を断ち切り、肉体にとらわれることのない永遠の命をもった仏へと変えてくれるものであり、欲を満たす楽しみしか知らない私たちに欲を離れ、静かな心になる幸せを知らせ、そんな心になりたいという心にしてくれるものであり、この信心こそ阿弥陀仏がどんな人も浄土に往生させたいと願い、その願いを果たす為に私たちに与えようとされているものであり、この阿弥陀仏のみ心のように私もなりたいと思う気持ちを起こしてくれるものであり、そして、その決意から苦しんでいる人を助けようとして、壁にぶつかり、悩み苦しんだとしても、途中で投げ出すことなく、最後までこつこつと種をまいてゆくことができる信念を与えてくれるものであり、それは誰も自分と同じ志を持っているものがいなくても、自分一人しかいなくても続けてゆくことのできる信念である。なぜそれができるのかと言えば、他人から認めてもらいたいからやるのではなく、バカにされたくないからするのでもない、お金が儲かるかどうかなんて関係ない、苦しんでいる人の苦しみをただ抜いて幸せにしてあげたい、それが私が本当にしたいからする、そんな心へと変えてくれるものが信心であり、それは阿弥陀仏から常に私の心を照らし煩悩に心が染まらないように私の心を守って下さるからこそ、一つのことを続けてゆけるのです。こんなことは信心を頂いていない人がどんなに真似をしようとしてもできないことであり、どんなに信心を頂いたと言っている人であっても、その信心がまことでなければ、その活動はすぐに煩悩に塗れ、聞いている人たちも煩悩から離れることができない。煩悩から離れさせる力があるのは、まことの信心を頂いた人であり、それは他の人では到底真似ができないことなのです。しかし、そうやって、信心を得た人が仏法を伝えても信じてくれる人はほとんどなく、その道は険しく厳しい道であるが、それでも、この道だけが人々を救う最短の道であり、どんな困難な道であっても、その道を進むしかないと覚悟が決まるのが信心の働きです。これが仏になる為の道である。
しかし、それを実践してゆく私もまた煩悩に振り回されている人間、欲によって脇道にそれたり、どうしても許せないことがあって前に進むことができなかったりすることもあるが、信心の働きによって、煩悩即菩提を起こし、欲を満たしても空しいだけだと白道に戻させ、また、許せない冷たい心を温かい慈悲の心で溶かし、白道を進ませて下さるのです。そして、海のような仏の世界へと私を連れて行って下さるのです。
これが信心の働きであり、それは念仏往生の願である阿弥陀仏の十八願から生み出された働きなのです。この十八願は、阿弥陀仏が四十八の本願を建てられた中でこれが私の最も果たしたい願いだと選び取られた本願なので選択本願とも言われ、また、阿弥陀仏の至心を受けて信楽し、阿弥陀仏と同じ至心になりたいという心になるので、本願三心の願とも言います。また、単に至心信楽の願と言われることもある。この至心信楽の働きによって浄土に往生してゆくので、私はこの阿弥陀仏の十八願を往相信心の願と言ってもいいと思います。ですから、煩悩に塗れ、穢土から離れることができない私たちが浄土に往生し仏になることが難しい訳ではない。阿弥陀仏の至心を信楽することが難しいのである。それは、私たちが至心を信楽する為には、阿弥陀仏のお力によってこの世に現れた善知識に会わないと、まずならないし、せっかく、善知識にお会いしても、信楽の身になるところまで聞き求めて行かなければならない。それも、すべて阿弥陀仏のお力によってなされることであるからである。この阿弥陀仏のお力によって信楽の身にして頂いたならば、その信楽の働きによって、現実と向き合い、そこに見える真実の自分を受け入れてゆくことができる。これはどんなに私が理想の自分にすがりついていたとしても関係なく、その執着を断ち切ってゆく真実の自分を受け入れさせる。だから、煩悩の喜びしかしらない私たちが、他人の苦しみを抜いてゆく喜びを知り、仏様によって導かれる身にさせて頂くことができるのである。

信巻 [三・経文引証]

[一・大無量寿経一文]

(真宗聖典p321)
至心信楽の本願(第十八願)の文、『大経』(上)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん。もし生れざれば、正覚を取らじと。ただ五逆と誹謗正法を除く」と。{以上}

(意味)
至心信楽の本願(第十八願)の文(大無量寿経上巻)
「私が仏の悟りを開いたならば、すべての人に対して次のようなことをお約束します。至心を信楽できる身にして、それによって、私と同じ心の世界に出たいという思いを起こさせてあげましょう。そして、それが一時的なものではなく、決して崩れないものであるならば、必ず私と同じ心の世界に生まれさせてあげましょう。もし、この誓いが果たせないとしたら、私は仏にはなりません。ただし、五逆罪のものや、謗法罪のものは、このすべての人から除きます」

[二・如来会一文]

(真宗聖典p321)
『無量寿如来会』(上)にのたまはく、「もしわれ無上覚を証得せん時、余仏の刹のうちのもろもろの有情類、わが名を聞き、おのれが所有の善根、心々に回向せしむ。わが国に生ぜんと願じて、乃至十念せん。もし生ぜずは、菩提を取らじと。ただ無間の悪業を造り、正法およびもろもろの聖人を誹謗せんをば除く」と。{以上}

(意味)
『無量寿如来会』(上)には次のようにこの十八願を教えられています。
「私が仏の悟りを開いたならば、次のことをお約束します。善知識から教えを聞かせて頂くものが、その善知識の導きによって、我が少なくなり、素直に私の力を受け取れるようになったならば、私が持っているたくさんの智慧という宝をその人に与えてあげましょう。そして、その力によって私と同じ心の世界に生まれたいという願いを起こし、その願いが決して崩れない身にしてあげましょう。そういうものをもし私と同じ心にすることができなければ、私は仏の悟りを開きません。ただ、無間業を造り、仏法やまた、その仏法を伝えて下さる方を誹謗するものは、この中には入りません。」

[三・大無量寿経一文]

(真宗聖典p322)
本願成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまへり。かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」と。{以上}

(意味)
本願成就の文、『大無量寿経下巻』
「どんなものであっても、善知識から真実の仏法を聞かせて頂き、それによって大慈悲心が起きて、人々の苦しみを取り除いてあげる事が自分の心の中心となったならば、それは、阿弥陀仏の至心が私に降り注ぐことによって、大慈悲心が起きたのである。だから、その大慈悲心に揺り動かされて、阿弥陀仏と同じ心の世界に出たいという願いが起きたならば、その願いは崩れることなく煩悩に塗れた心がやがて煩悩から離れた浄らかな心へと必ずなることができるのです。ただどんなものといっても五逆罪と謗法罪のものは、阿弥陀仏から大慈悲心を頂くことはできません。」

[四・如来会一文]

(真宗聖典p322)
『無量寿如来会』(下)にのたまはく、[菩提流志訳]「他方の仏国の所有の有情、無量寿如来の名号を聞きてよく一念の浄信を発して歓喜せしめ、所有の善根回向したまへるを愛楽して無量寿国に生ぜんと願ぜば、願に随ひてみな生れ、不退転乃至無上正等菩提を得んと。五無間、正法を誹謗し、および聖者を謗らんをば除く」と。{以上}

(意味)
『無量寿如来会』(下)[菩提流志訳]
「善知識から教えを聞かせて頂き、それによってどろどろの泥の中で真っ白な蓮の花が咲くように、阿弥陀仏のお力によって煩悩に染まった私の心の中に真っ白な浄らかな信心が起きたならば、その信心の働きによって、自分が如何に煩悩に穢れ、自分のことしか考えていないものかが分かる。だからこそ、煩悩から離れたい、自分のことばかり考えるのではなく、相手のことを考え幸せにしてあげられる人間になりたいという願いが起きて来るのです。その願いは阿弥陀仏から頂いた信心の働きによって起きるので、木に燃え移った火が、木から離れることなく木を燃やしてゆくように、信心の火は煩悩を焼き、心を浄化し、その信心は金剛の信心へと変わり、私を仏に変えてゆくのです。ただし、五逆罪、また仏法を謗るもの、また、仏法を否定することができないので、仏法を正しく伝える善知識のあらを探し悪口を言うものは除きます。」

[五・大無量寿経一文]

(真宗聖典p322)
またのたまはく(大経・下)、「法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば、すなはちわが善き親友なり。このゆゑにまさに意を発すべし」と。{以上}

(意味)
善知識から教えを聞かせて頂き、真実が心から離れなくなり、その真実に対して反発することなく心から受け入れ、それによって、大慈悲心が起きたならば、その人は、この釈迦の親友である。だからこそ、大慈悲心が起きるところまで仏法を聞いて頂きたい。

(解説)
仏法とは何か?仏法とは法鏡である。つまり、仏法とは真実の自分のすがたを映し出す鏡のようなものである。だから、善知識から教えを聞かせて頂くと段々と真実の自分が知らされてきます。では、真実の自分とはなんでしょうか?仏教では唯識が教えられ、私たちの見ている世界とは、一人一人の心に映し出される世界であると教えられています。ですから、私たちが見ている世界というのは、あくまでも心の中に映る映像であって、実際の世界は心の外にあるのです。この心の中で映し出される世界を、仏教では唯識と言います。この唯識の特徴として、そこで自分が見て感じたことは自分の中に存在しているものであり、自分の中にないものは、たとえ目で見たとしても問題にすることはないのです。たとえば、相手から無視されたといって怒っている人がいたとしたら、その人も嫌いな人がいたら無視しているのです。もし、自分が無視をするような人間ではなかったとしたら、相手がたとえ無視をしてきたとしても、なぜあんなことをしたのだろうと思うだけで、腹を立てることはありません。これと同じように、私たちが世界を通して気になること、腹が立つこと、問題になることは自分もまた、同じことをしているのです。ところが、私たちはそうやって気になるところは自分にはないと思っているので、そうやって気になる人を否定したり、怒ったり、悪口を言っているのです。しかし、実際は自分もやっていることなので、自分が同じことをしてしまった時に、責められているように感じて苦しむのです。これが唯識です。この場合、誰も自分のことを責めていなかったとしても、自分の心には誰かが私のことを責めているように感じるのです。それこそ誰かを責めている時の自分のすがたなのです。結局、世界はいつも自分のすがたを見せてくれます。それが自分だと分からないから、私たちは誰かが私を責めていると思ったり、攻撃していると思ったりして苦しむのです。仏教は、そうやって自分を苦しめているものは、自分の心によって生み出されたものであり、自分のすがたなんだと教えられます。それを自分だと思えないから、世界を通して自分のすがたが見えたとき、無意識のうちに、これは自分ではないと思って怒ったり、悪口を言ったりして否定してしまうのです。しかし、そうやって否定しても世界は常に自分のすがたを見せ続けているので私たちは苦しみ続けていかなければならないのです。仏法はそんな私たちの苦しみを取り除くために、世界に見えるすがたこそ自分であると教えるのです。これが法を聞くということです。初めは「こんなものは自分ではない」と思っているので、仏法でどんなに世界に見えるすがたが自分であると教えられても、なかなか信じることができません。しかし、続けて聞いていくうちに段々と思い当たることが増えてきて、「認めたくはないけど、これも自分なんだ」と認め始め、心から忘れることができなくなります。そして、本当にこれが自分だと分かった時、今まで世界はいつも自分を教えてくれていたのに、それを否定し見ていなかったことを反省し、ボロボロになった自分を見捨てず、少しでも良くしていこうと思うようになります。これが大慈悲心です。世界に映る自分を否定するのではなく少しでも変えていこうと努力していく姿こそ、菩薩であるので、お釈迦様名そうなった人を私の親友であると言われているのです。

 

信巻 [四・釈文引証]

[二・善導四文]
(三・散善義一文)

(真宗聖典p324)
またいはく(散善義 四五四)、「〈何等為三〉より下〈必生彼国〉に至るまでこのかたは、まさしく三心を弁定して、もつて正因とすることを明かす。すなはちそれ二つあり。一つには世尊、機に随ひて益を顕すこと意密にして知りがたし、仏みづから問うてみづから徴したまふにあらずは、解を得るに由なきを明かす。二つに如来還りてみづから前の三心の数を答へたまふことを明かす。『経』(観経)にのたまはく、〈一者至誠心〉。
〈至〉とは真なり、〈誠〉とは実なり。一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋・邪偽・奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時に急に走め急になして頭燃を灸ふがごとくするものは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心のうちになしたまひしに由(由の字、経なり、行なり、従なり、用なり)つてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。{乃至} 不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ。またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを須ゐて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく。

(意味)
観無量寿経の中に「何等をか三と為す。一には至誠心・二には深心・三には回向発願心なり。三心を具する者は必ず彼の国に生る」(その三つとは何かと言いますと、一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心である。この三つの心が備わった人は必ず浄土に生まれることができる)と説かれているのは、浄土に往生する為に、この三つの心が起きることが必要であることを教えられている。この三心とは何か、それは仏の御心は深く、直接、仏に三心とは何か聞いて教えて頂かなければ、その三心とは何か理解することはできない。そこで、三心とは何か、この善導に宿った信心がその意味について明らかに教えて下さったので、ここで明らかにしたいと思います。
まず、最初の至誠心とは、至誠とは、真実という意味である。ですから、至誠心とは、真実心のことである。真実心とは、見栄や強がり、いい格好しようと思う気持ちを取り除いた、その人の正直な心のことである。煩悩から離れようとどんなに努力したとしても、その心が真実心でなければ、煩悩から離れようとして努力すればするほど、心が穢れてしまい煩悩から離れることができない。だから、煩悩から離れ浄土に往生しようと思うのなら、まず真実心にならなければならない。では、どうしたら真実心になることができるのか?その為にはまず他人の目を気にして、賢い姿を見せたり、善い人だと思われるように表面を取り繕ったり、他人が見ている時だけ頑張るようなことは止めなければならない。なぜなら、そんな風に努力していても、それは表面だけ取り繕った嘘でしかないからである。こうやって、他人の前だけよく見せようと頑張る人は、人が見ていない時には好き勝手して、思いを通しているので、思い通りにならないところでは、いつも我慢して怒りを抑えているだけである。やがて、そうしているうちに、内に抱えた思いを通したいという願望は、ゆがんだ形で現れ、他人をだまし、自分をだまし、他人を傷つけても、思いを通すようになる。しかも、自分ではそんなことをしている自覚がないので、頑張っていいことをしているように思っている。でも、そのいい顔している裏では、蛇に相手をぐるぐる巻きにして思い通りに動かそうとする醜い心や、思い通りにならない人に対して、怒りをぶつけ、人間関係を断ち切ろうとする、恐ろしい蠍のような心が渦巻いている。そんな心に気付かず、どんなに善いことをしたとしても、それは醜い欲望を満たす為のゆがんだ方法でしかない。だから、一見、良いことをしているように見えるだけで、相手を苦しめ、自分も傷つくような結果にしかならない。そんな表面だけを取り繕っている心でどんなに24時間頑張ったとしても、醜い欲望を満たす為の煩悩に穢れた行為でしかない。だから、そんな穢れた行いを続けていて、煩悩から離れた浄土へ往生することは絶対にできないのである。なぜ、こんな心でどれだけ頑張っても浄土に往生することができないのかと言えば、それは、阿弥陀仏が仏になられる為にご修行された時の心は、いつも真実心であったからである。これは単に阿弥陀仏がこのようにご苦労されたということではなく、私たちも同じような心にならなければ浄土に往生することはできないのである。そして、阿弥陀仏はこの心を私たちに与えて下さるので、私たちもまた、真実心になることが出来るのである。どんなに正直になれず、他人の目を気にして表面を取り繕っているものでも、阿弥陀仏から頂く真実心は私の不実の心を無くし、真実心へと変えてゆく。浄土に往生する為に行う善は、どんな人であっても、この阿弥陀仏から頂いた真実心によってなされ、浄土に往生してゆく。これを至誠心と言うのである。

(真宗聖典p325l11)
〈二者深心〉。〈深心〉といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。また決定して、『弥陀経』のなかに、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生ずることを得と深信するなり。また深信するもの、仰ぎ願はくは一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行によりて、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふ処をばすなはち去つ。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。また一切の行者、ただよくこの『経』(観経)によりて行を深信するは、かならず衆生を誤らざるなり。なにをもつてのゆゑに、仏はこれ満足大悲の人なるがゆゑに、実語なるがゆゑに。仏を除きて以還は、智行いまだ満たず。それ学地にありて、正習の二障ありていまだ除こらざるによつて、果願いまだ円かならず。これらの凡聖は、たとひ諸仏の教意を測量すれども、いまだ決了することあたはず。平章することありといへども、かならずすべからく仏証を請うて定とすべきなり。もし仏意に称へば、すなはち印可して〈如是如是〉とのたまふ。もし仏意に可はざれば、すなはち〈なんだちが所説、この義不如是〉とのたまふ。印せざるは、すなはち無記・無利・無益の語に同じ。仏の印可したまふは、すなはち仏の正教に随順す。もし仏の所有の言説は、すなはちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多もしは少、すべて菩薩・人・天等を問はず、その是非を定めんや。もし仏の所説は、すなはちこれ了教なり。菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づくるなり、知るべし。このゆゑに今の時、仰いで一切有縁の往生人等を勧む。ただ仏語を深信して専注奉行すべし。菩薩等の不相応の教を信用して、もつて疑礙をなし、惑ひを抱いて、みづから迷ひて往生の大益を廃失すべからざれと。{乃至}釈迦一切の凡夫を指勧して、この一身を尽して専念専修して、捨命以後さだめてかの国に生るれば、すなはち十方諸仏ことごとくみな同じく讃め、同じく勧め、同じく証したまふ。なにをもつてのゆゑに、同体の大悲なるがゆゑに。一仏の所化は、すなはちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなはちこれ一仏の所化なり。すなはち『弥陀経』のなかに説かく、〈釈迦、極楽の種々の荘厳を讃嘆したまふ。また一切の凡夫を勧めて、一日七日、一心に弥陀の名号を専念せしめて、さだめて往生を得しめたまふ〉と。次下の文にのたまはく、〈十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦よく五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩・悪邪無信の盛りなる時において、弥陀の名号を指讃して衆生を勧励せしめて、称念すればかならず往生を得と讃じたまふ〉と、すなはちその証なり。また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんを恐畏れて、すなはちともに同心同時におのおの舌相を出して、あまねく三千世界に覆ひて誠実の言を説きたまはく、〈なんぢら衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問はず、ただよく上百年を尽し、下一日七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念して、さだめて往生を得ること、かならず疑なきなり〉と。このゆゑに一仏の所説をば、すなはち一切仏同じくその事を証誠したまふなり。これを人に就いて信を立つと名づくるなり。{乃至} またこの正のなかについてまた二種あり。一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに。もし礼誦等によらば、すなはち名づけて助業とす。この正助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名
づく。{乃至} すべて疎雑の行と名づくるなり。ゆゑに深心と名づく。

(意味)
次に二つ目の深心というのは、この深心とは疑いなく深く信じた心のことです。では、何を疑いなく信じることなのかと言えば、このことに二つある。一つには、私は智慧がない為に過去から今に至るまで、罪悪を造り続けてきた。だから、どんなに悪をやめてゆこうと努力をしても、業力に引かれてどうしても悪をしてしまう。だから、自分の力ではどう頑張っても、罪悪から離れることができないものだということを疑いなく信じること。もう一つは、今、善知識から教えを聞かせて頂き、それによって阿弥陀仏から智慧を頂いている。この阿弥陀仏から頂く智慧の働きによって、煩悩が段々と少なくなっていることが知らされる。そして、このまま善知識の教えに従い仏法を聞かせて頂けば、必ず浄土まで往生できるのだということを疑いなく信じることである。また、このような心になるまで、善知識が観無量寿経の教えを明らかにされ、私に善を勧められ、どんなに善を実践しようとしても智慧がないことには実践できないことを知らせ、また、自分のすがたが知らされ、自信を失い、仏法を求めようとすることを諦めようとした時には、阿弥陀経の教えを明らかにし、私の仏縁が切れないように守って下さった。この観無量寿経、阿弥陀経の方便によって、深心の身になれたということがハッキリと知らされた。
また、また深信とは、仏教という教えを自分の考えのものさしに置いて行動してゆくことである。私たちは誰しも自分の考えをものさしにして、いつも行動している。しかし、智慧がない私たちの考えをものさしにして、いくら考えて行動しても結局、苦しむだけである。だから、仏の智慧を体得された善知識によく相談して行動してゆくことが大事である。つまり、自分の思いは間違っているところに立って、善知識から教えて頂くことを基準として行動してゆくことである。善知識が私に対してこれは捨てなさいと言われたならば、捨てるようにし、また、善知識がこれを実践しなさいと言われたならば、実践する。そして、納得できないことがあったならば、それは教えをまだ理解できていないのだから、納得のゆくところまで聞いてゆく。そして、聞いて自分がよく納得したところを実践してゆく。善知識が正しく教えを説かれても、自分が正しく理解していなかったら、いくら実践していても意味がない。だから、仏教という教えがよく分かるところまで聞いてゆく。そして、常に教えを基準として考えるようにしてゆく。これが本当の仏弟子のすがたである。
また、善知識から教えを聞かせて頂くものは常に善知識に聞いて、他人に伝えてゆきなさい。そうすれば、たとえ仏の智慧がない人でも他人を導くことができる。なぜ善知識に確認していかなければならないのかと言えば、善知識は仏の智慧を持たれた方であり、その教えは私の現実を変えてゆく力があるからである。また、善知識以外のものはどんなに教えを理解したとしても、まだ悟りを開いている訳ではないので、煩悩の礙りが邪魔をして仏性を見ることができない。だから、どんなに教えを理解したとしても、それは知識だけであって、その心まで理解することができない。
だから、どんなに言葉を正しく覚えていたとしても、その教えを正しく理解しているかどうかは、必ず善知識に確認してゆく必要がある。確認して自分が正しく理解しているならば、「それでいいよ。」と言われるし、自分の理解が間違っているならば、「それは違う」と教えてくれる。まだ、確認していないものは、自分の理解が正しいかどうか分からないので、それはまだ教えだと思って信じていけないのである。だから、どんなに権威のある人から聞いたとしても、その人が仏の智慧を体得された方かどうか、それが大切である。どんなに立派な学者であっても、その人がまだ悟りを開いていないとしたら、どんなことも無意味な言葉の羅列でしかない。ですから、今日の仏教を求めるものは、まず善知識を探し、その教えを聞かせて頂くことが大事なことである。
お釈迦様はどんなに現実と向き合うことができない人であっても、善知識を信じて教えを聞き求めてゆけば、必ず現実と向き合い、現実から目をそらす迷いの命を断ち切って浄土に往生できると教えられている。しかし、実際に現実と向き合ってみると自分が思っていた以上に苦しみ、とても自分には浄土まで進んでゆくことができないのではないかと思って楽に逃げようとしてしまう。だからこそ、お釈迦様だけでなく大宇宙の諸仏方が必ず浄土まで進んでゆくことができると保証され、何とかして現実と向き合えるようにして下さっているのです。
このようにお釈迦さまが勧められた教えは、それが真理であるので、その教えは時空を超え大宇宙の諸仏方もなされている教えである。だから、お釈迦さまが私たちを導いてゆかれた方法は、それはお釈迦さまだけの方法ではなく、時空を超えて、未来の善知識もまた、同じように人々を導くのである。このことは「阿弥陀経」の中に次のように教えられています。
「お釈迦様は極楽の素晴らしいお徳を説法を通して私たちに伝えてくだされる。そのお徳は聴聞によって私たちに備わり、続けて聞いてゆくひとによって煩悩から離れさせ、浄土へと往生させてゆくのである」
また次のようにも教えられている。
「大宇宙にガンジス河の砂の数ほどの仏様がおられて、その仏様方が、この釈迦がこの仏法のない煩悩に塗れた世界で、間違った考え方に凝り固まり、欲を満たすことしか考えていないものに対して、なかなか仏法を信じてもらえない中、よく仏法を伝えて人々を浄土まで導こうとしている、その活動を褒め称えている」
また、人々がお釈迦様がなされていることを信じず、他に幸せになる方法があるのではないのかと思うので、その迷いを打ち破る為に、「何時の時代でも、どこに生まれたとしても、そこに仏様がおられたならば、お釈迦様と同じように導かれることを教えられ、だから、お釈迦様の説かれ方を信じて地道に求めてゆきなさい、どんな人であっても聴き続けてゆけば必ず浄土に往生できる」と教えられているのです。このようにお釈迦様がどのように人々を導かれたのかということは、それはお釈迦様だけのことではなく、すべての仏様も同じように導かれていることを教えられ、お釈迦様の導き方以外に浄土に往生できる方法はないことを明らかにされているのです。これを人を通して信じると言います。つまり、善知識によって導き方が異なることはなく、いつの時代でも、どこで聞いても変わらないことを通して、この教えに従ってゆけば、浄土に往生できると信じるのです。私たちが浄土に往生する為には善知識の教えを正しく聞いていかなければならない。どんなに一生懸命聞いたとしても、教えに自分の考えが混じっていたら、どんなに聞いたことを実践したとしても、それは雑行と言われ、浄土に往生することはできない。では、正しく聞いている人とはどんな人か?この人に二種類ある。一つには、心に阿弥陀仏の光明が差し込み、どんなに煩悩によって誤魔化そうとしても、光明によって真実が知らされ、その真実を認めずにはおれない人、この人は善知識の教えやお聖教を通して、自分の知らされた真実と照らし合わせて、常に正しい意味を知ることができる人、この人が仏のさとりまで到達できる人です。もう一つは、善知識から聞かせて頂いた教えを常に自分に引き当てて確認し、分からないところは善知識に確認しながら、身体を通して知らされたものだけを自分のものさしとして従ってゆくという聞き方である。この二つは正しく教えを聞き、それを行動に移すことができるので、煩悩から離れ浄土へと往生してゆくことができる。それに対して、自分は正しく聞けると自惚れている人は言葉にばかりとらわれて、その心を理解しようとしない。その為、教えを聞いていながら、そこに自分の考えが常に混じっている。このようにして教えを実行している人を像行といい、結局は自分の考えに従って生きている今までの生き方となんら変わりないので、運命が変わらず、浄土に往生することもできないのである。このように深く善知識を信じ、正しく聞こうとするのを、深心というのです。

(真宗聖典p328l1)
〈三者回向発願心〉。{乃至} また回向発願して生ずるものは、かならず決定して真実心のうちに回向したまへる願を須ゐて得生の想をなせ。この心深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。ただこれ決定して一心に捉つて正直に進んで、かの人の語を聞くことを得ざれ。すなはち進退の心ありて怯弱を生じて回顧すれば、道に落ちてすなはち往生の大益を失するなり。
問うていはく、もし解行不同の邪雑の人等ありて、来りてあひ惑乱して、あるいは種々の疑難を説きて〈往生を得じ〉といひ、あるいはいはん、〈汝ら衆生、曠劫よりこのかた、および今生の身口意業に、一切凡聖の身の上において、つぶさに十悪・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等の罪を造りて、いまだ除尽することあたはず。しかるにこれらの罪は三界悪道に繋属す。いかんぞ一生の修福念仏をして、すなはちかの無漏無生の国に入りて、永く不退の位を証悟することを得んや〉と。
答へていはく、諸仏の教行数塵沙に越えたり。識を稟くる機縁、情に随ひて一つにあらず。たとへば世間の人、眼に見るべく信ずべきがごときは、明のよく闇を破し、空のよく有を含み、地のよく載養し、水のよく生潤し、火のよく成壊するがごとし。これらのごときの事、ことごとく待対の法と名づく。すなはち目に見つべし、千差万別なり。いかにいはんや仏法不思議の力、あに種々の益なからんや。随ひて一門を出づるは、すなはち一煩悩の門を出づるなり。随ひて一門に入るは、すなはち一解脱智慧の門に入るなり。ここを為(為の字、定なり、用なり、彼なり、作なり、是なり、相なり)つて縁に随ひて行を起して、おのおの解脱を求めよ。なんぢなにをもつてか、いまし有縁の要行にあらざるをもつて、われを障惑する。しかるにわが所愛はすなはちこれわが有縁の行なり、すなはちなんぢが所求にあらず。なんぢが所愛はすなはちこれなんぢが有縁の行なり、またわれの所求にあらず。このゆゑにおのおの所楽に随ひてその行を修するは、かならず疾く解脱を得るなり。行者まさに知るべし、もし解を学ばんと欲はば、凡より聖に至るまで、乃至仏果まで、一切礙なし、みな学ぶことを得よ。もし行を学ばんと欲はば、かならず有縁の法によれ。少しき功労を用ゐるに、多く益を得ればなりと。また一切往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一つの譬喩(喩の字、さとす)を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。

(意味)
最後の回向発願心とは、阿弥陀仏から他力の信心を頂き、阿弥陀仏の苦しんでいる人を助けてあげたいという願いに動かされている人はどんなに困難な道であっても、たとえ他に進むものがいなかったとしても、たった独りでも、二河白道を進み、六度万行を実践して往きなさい。あなたがこの時代のただ一人の善知識である。あなたが二河白道を進んでいかなければ誰も救われない。他の人が救われるかどうかは、あなたがまず、この二河白道を進むかどうかにかかっているのです。では、あなたに二河白道を進むことができるか?それは心配はいらない。なぜなら、あなたには阿弥陀仏から頂いた他力の信心があるからだ。この他力の信心は、あなたが現実と向きあうことが苦しくなって、煩悩を起こし、逃げようとした時、真実を照らし、逃げても幸せはないと知らせてくれる。だから、もう一度、向き合おうと思えるのだ。そうやって二河白道を泣きながら、進んでゆくのだ。ただし、この道を進んでゆくには条件がある。私が仏法を伝え残さなければ、真実の仏法は残らないという護法の志が必要だ。誰かが教えを伝えてくれる、この他力の信心を得た人はどこかにいて、その人が伝えてくれる。だから、自分が責任を持って伝える必要はない。それは自分ではない誰かの仕事だと自分の使命から逃げているうちは、とても二河白道を最後まで渡り切ることはできない。真実の仏法を伝え、この世に残してゆくのは自分しかいない。自分がやらなければ誰もやらない。だからやる、そんな気持ちでなければ、他力の信心があったとしても、最後まで渡り切ることはできないのである。では、他力の信心を得ていない私たちはどうしたら、この二河白道を渡り切ることができるのであろうか。ただ聴聞をしながら他力の信心が得られるまで待っていたらいいのかというと、そうではない。なぜなら、そんな気持ちでは他力の信心は絶対に得ることはできないからである。では、どうしたら私たちは二河白道を渡り切ることができるのでしょうか。それはひとえに善知識の教えに従い進んでゆくことができるのです。阿弥陀仏のすべての人を浄土へ連れてゆきたいという願いは善知識を通して現れ、善知識が利他に励み、智慧を与えて下さることによって、他力の信心のない私たちも二河白道を進み浄土まで往生することができるのです。だから、人を導く力の十分にある善知識が教えを説き、私たちがその善知識を心から信じたならば、二河白道を進む気持ちが決して崩れることなく、たとえどんなに心の中にもっと楽な方法があるのではないかという気持ちが起きたとしても、その誘惑に負けて挫折することなく、最後まで二河白道を渡り切ることができるのです。だから、至誠心になり、善知識を信じ、善知識の教えを正しく聞き二河白道を進んでゆきなさい。浄土に往生する為には三つのことが大事である。まず、至誠心になること、次に善知識を深く信じ、善知識の教えを正しく聞き、実践すること、そして、最後は、二河白道を進んでゆくこと。この三つがそろった時、どんな人でも浄土まで進んでゆくことができる。だから、その三つの心が起きるまで、地道に仏法を聞いてゆきなさい。決して他にもっと楽な道があると思って、脇道にそれてはいけませんよ。せっかく、本当の善知識にお会いして真実の仏法を聞かせて頂いても、善知識を信じ切れず、もっと楽な道はないかと二河白道を進むことから逃げてしまったら、絶対に往生することはできず、三悪道で苦しまなければなりません。
では、お尋ねします。もし、善知識と理解が異なる仏教の学者がいて、その人があれこれ、もっともらしいことを言って、聞いている人を惑わし、また、「私たちのような煩悩に塗れたものが二河白道を進むことなんてできない。だから、そんな方法で往生することなんてできない。」と言ったり、また、「私たちは果てしない昔から今に至るまで、仏教で教えられる悪である、十悪、五逆、謗法、闡提などの罪を造り続け、その罪悪に引かれて、ずっと三悪道で苦しんできたではないか。今さら、その罪悪の重さが知らされ、善知識の教えに従って、罪悪と向き合い、二河白道を進もうとしたって、できるものではない。ましてや、二河白道を渡り切って、浄土に往生することなんて人間のできることじゃない。」と言ってきますが、私たちは本当に善知識の教えに従ったら二河白道を進み、浄土にゆくことができるのでしょうか?
「善知識の教えは、相手の苦しみに応じて、その苦しみを取り除き、悟りまで導いてゆく。それは、私たちはどんなに仏法の素晴らしさを聞いたとしても、自分が実際に苦しんでいるものしか、本気になって取り除こうと取り組むことがないからである。これを譬えるならば、先が分からず闇で苦しんでいる者には光を与え、思い通りにならず、苦しんでいるものには、もっと広い視野に立てるように智慧を与え、心が成長できず、いつまでも幼稚な心から離れられないものには、安心できる大地のような環境を作り出し、その人がその場所で色々な問題と向き合って、すくすくと心が成長できるようにし、心が乾き、認められたいと苦しんでいるものには、仏法の力によって、その心の渇きを潤し、余裕のある心へと変えてゆく。また、執着で苦しんでいるものには、智慧の火によって、その執着を燃やし、執着に縛られない自由な心へと変えてゆく。このような導き方を対機説法と言われ、相手が実際に苦しんでいると思っているものを一つ一つ取り除いていく導き方である。だから、一人一人苦しんでいることが違うので、その導き方も千差万別になる。このようにどんな相手の悩みや苦しみも取り除いてゆくのが、仏法だから、仏法を聞いてゆくことによって、多くの幸せが得られるのである。つまり、今、善知識が自分に対して教えられていることを実践してゆけば、確実に一つの苦しみから離れることができ、一つの苦しみから離れると、今まで気付かなかった苦しみが問題になり、その苦しみを取り除く為に、善知識から新たな教えを聞かせて頂くようになる。だから、自分が今、善知識から教えて頂くことは、その苦しみを取り除いてゆくことによって、そのまま、煩悩から離れ、浄土へと往生してゆき、私の間違った考えを仏法に従った正しい考えへと変えてゆくことができるのである。だから、どんなに罪悪を抱えたものでも、一つ一つその罪悪を取り除いてゆけば、必ず浄土に往生することができるのである。あなたは一度に罪悪のすべてを取り除く楽な方法があるのではないかと期待しているから、一つ一つ罪悪を取り除いてゆく教えを聞いて、なんか時間がかかるように感じて、疑っているのである。確かに信心を得たら肉体が死ぬだけで極楽にゆけると聞くと、なんて素晴らしい教えだと思って飛びつき、自分のような罪悪の重いものは、どんなに修行に励んでも無くすことはできない。それよりも阿弥陀仏を信じて極楽に往生する方がずっと楽だと、楽へ楽へと流れてゆく気持ちも分かる。でも、仏教は因果の道理、やっぱり、どんなに時間がかかっても、自分の罪悪と向き合い、一つ一つ取り除いてゆく以外に道はないのである。でも、その道は一人で進んでゆく道ではない。善知識があなたの心を支え、共に進んで下さる道である。だから、どんなに困難が待ち構えていても、二河白道を進み、浄土まで往生することができるのである。あなたが二河白道を勧めないと思うのは、まだ善知識の力を知らないからだ。善知識の力が知らされたら、あなたも浄土まで往生できると思えるようになる。千里の道も一歩から、どんなに長いみちのりであっても、一歩一歩進んでゆくしかないのである。
このことを一つの譬えを通して、明らかにし、楽な道を探そうとしているものに対して、楽な道はない、どれだけ時間がかかろうとも地道に一歩ずつ進むしかないことを明らかにしたいと思います。

(真宗聖典p329l5)
なにものかこれや。たとへば人ありて、西に向かひて行かんとするに百千の里ならん。忽然として中路に見れば二つの河あり。一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。この人すでに空曠のはるかなる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りてこの人を殺さんとす。死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言すらく、〈この河、南北に辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、きはめてこれ狭少なり。二つの岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。今日さだめて死せんこと疑はず。まさしく到り回らんと欲へば、群賊・悪獣、漸々に来り逼む。まさしく南北に避り走らんとすれば、悪獣・毒虫、競ひ来りてわれに向かふ。まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんとすれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せんことを〉と。時に当りて惶怖することまたいふべからず。すなはちみづから思念すらく、〈われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし〉と。この念をなす時、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈きみ回り来れ、この道嶮悪なり、過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。この人、喚ばふ声を聞くといへども、また回顧みず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。善友あひ見て慶楽すること已むことなからんがごとし。これはこれ、喩(喩の字、をしへなり)へなり。
次に喩へを合せば、〈東の岸〉といふは、すなはちこの娑婆の火宅に喩ふ。〈西の岸〉といふは、すなはち極楽宝国に喩ふ。〈群賊・悪獣詐り親しむ〉といふは、すなはち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩ふ。〈無人空迥の沢〉といふは、すなはちつねに悪友に随ひて真の善知識に値はざるに喩ふ。〈水火の二河〉といふは、すなはち衆生の貪愛は水のごとし、瞋憎は火のごとしと喩ふ。〈中間の白道四五寸〉といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。いまし貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。善心、微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。また〈水波つねに道を湿す〉とは、すなはち愛心つねに起りてよく善心を染汚するに喩ふ。また〈火焔つねに道を焼く〉とは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。〈人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ〉といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。〈東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む〉といふは、すなはち釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらず、なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ、すなはちこれを声のごとしと喩ふるなり。〈あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚び回す〉といふは、すなはち別解・別行・悪見の人等、みだりに見解をもつてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失すと説くに喩ふるなり。〈西の岸の上に人ありて喚ばふ〉といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。〈須臾に西の岸に到りて善友あひ見て喜ぶ〉といふは、すなはち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱するに由なし。仰いで釈迦発遣して、指へて西方に向かへたまふことを蒙り、また弥陀の悲心招喚したまふによつて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見て慶喜すること、なんぞ極まらんと喩ふるなり。
また一切の行者、行住坐臥に三業の所修、昼夜時節を問ふことなく、つねにこの解をなし、つねにこの想をなすがゆゑに、回向発願心と名づく。また回向といふは、かの国に生じをはりて、還りて大悲を起して、生死に回入して衆生を教化する、また回向と名づくるなり。
三心すでに具すれば、行として成ぜざるなし。願行すでに成じて、もし生ぜずは、この処あることなしとなり。またこの三心、また定善の義を通摂すと、知るべし」と。{以上}

(意味)
ひとつの喩えを通して、どのようにして私たちが罪悪に塗れた世界を抜け出し浄土へと進んでゆくのか、その心の道程について明らかにします。
ある人が苦しみのない世界に出る為に、百千里も離れた所へ西へ向かって進んでいると、その途中に突然目の前に大きな二つの河にぶつかった。その河は二つと言っても、一つの大きな河が南北に流れていて、旅人に向かって右側、つまり、北側には水の河。また、左側、つまり、南側には火の河が流れて旅人の行く手を塞いでいた。この河の幅は百歩程でそれほど広くはないが、深さは底が知れない程あり、一度落ちたら、とても助かりそうもない。しかも、南北に果てしなく流れていて、西に行くためにはこの二河を避けては通れない。ふと足元を見ると、水の河と火の河の間には向こう岸へと続く一本の白道がある。どうやら西に向かう為にはこの白道を進む以外にないようだ。しかし、この白道の幅はわずかに四五寸しかなく、この白道には水の河からは波が押し寄せ、道を潤し、もしこの道を渡ろうとしたら、きっとこの波に足をさらわれ水の河に落ちてしまうだろう。一方、水の波がないときは、火の河から炎が吹き出し、白道を焼き尽くそうとしている。だから、白道と言っても実際は道なんてほとんど見えず、水や火が渦巻く中をどこが道だか分からず進まなければならないといった状態である。こんな道を渡らないといけないと思うと不安になり、誰か助けてくれるものはいないかと、あたりを見渡したが、そこには旅人以外誰もおらず、頼れる人は一人もいなかった。
「この二河には一人で向き合わなければならないのか。これはとても無理だな」
そう思って諦めて引き返そうとすると、はるか先から盗賊や猛獣が、旅人を痛めつけ、切り刻み、引きちぎって食い殺そうとして襲ってきているではないか。旅人は居ても立ってもおれず、西に向かって逃げようと振り返ると、目の前には二河がある。
「あの盗賊や猛獣たちから逃げるには、この白道を進み、二河を渡らなければならないのか。でも、こんな細い道どうして渡れるというのか。確かに向こう岸までそれほど遠くはないが、すがるものがなければいつ落ちるか分からない。とても白道を渡り切ることなど不可能だ。やっぱり諦めよう。」
そう思って再び振り返ってみると、盗賊や猛獣たちは、先ほどよりも更にこちらに迫って来ている。
「ああ、このままだとあいつらに捕まってきっとボコボコにされ切り刻まれ、食い殺されてしまう」
これでは、捕まるのは時間の問題です。
「このままじっとしている訳にはいかない」
そう思って北に向かって逃げ出すと、猛獣たちが追いかけてきて、旅人を不安にさせ苦しませる。それなら南に逃げたならばどうかと思って走り出すと、今度は毒虫たちが体中を刺し、毒が全身に回って苦しみのた打ち回る。「南北に逃げても苦しむだけだ。やはりあいつらから逃げるのはこの道を進む以外にはないのか」そう思って、二河の方へと目をやると水の河と火の河がますます激しく見え、全く進めそうもない。
「とてもこの中渡り切るなんて…。」
火の河と水の河の激しさは旅人を弱気にさせた。
「どうしよう、どうしよう。こうやってただ時間を過ごしている間にも盗賊や猛獣たちがこちらに近づいてきている。」
絶対に逃げられない状況に立たされてもなお、旅人の頭の中はどうしたらあの盗賊たちから逃げられるか、そんなことで頭が一杯でぐるぐると回っていた。やがて、どうやっても逃げられないと悟った旅人は観念して
「もうこんな状況だ。今更諦めて引き返しても、あの盗賊たちに襲われて苦しみ死ぬに違いない。だからといってこのままジタバタしても時間切れで盗賊たちがここにやってくるだろう。じゃあ、白道を進んで助かるか。それも今の私の力では間違いなくダメだろう。でも何もしないで殺されるよりは私は前を向いて死にたい。私は今までどうしたらあの盗賊たちから逃げられるか、そんなことばかり考えてきた。でも絶対に逃げることはできないみたいだ。もうジタバタもがくのはやめて、どんな結果になろうとも甘んじて受けよう。」
そう諦めのついた旅人は素直に白道と向き合った。そして、命をかけてこの道を進もうと心が定まった。その瞬間、こちらの岸で旅人に対していつも叫び続けてきた尊い方の声が初めて心の奥底に届いた。
「旅人よ。今の決意を忘れないで、脇目も振らず一心にこの道を進んでゆきなさい。その決意が崩れなければ必ず渡り切れる。でも、もしその決意が真でなければ、途中で決意が崩れ、二河に落ちて死んでしまうだろう。」
その尊い方の言葉を聞き、
「二河に落ちて死にたくない、でも、こんな弱い私の心が一つのことを信じ進んでゆけるだろうか。間違いなく挫折して二河に落ちて死んでしまうだろう。でも、もう戻ることはできない。たとえダメであっても私にはこの選択肢しかない。」
そう思い不安の中進んでいると、西岸から私を呼んで語りかけてくる、声なき声が聞こえた。
「旅人よ。西に向かうこと一つ心に念じ、まっすぐこの道を進みなさい。私が二河に落ちないように守ってあげよう。だから、迫ってくる火の河、水の河に畏れずぶつかってゆきなさい。」
旅人は尊い方の教えを心の明かりとして進み、見えない大きな手に支えられながら、自らの意思で火の河と水の河にぶつかって一歩一歩進み、その間、この道以外にも幸せがあるのではないのかと疑うこともなく、火の河、水の河に落ちてしまうのではないかと怯えることもなく、やっぱり渡り切ることは出来ないのではないのかと諦めることもなく、進んでゆくことがでました。ところが、一度進めると分かると心の中にスキが生じ、今まで疑うことなく進んでいた旅人の心に悪魔の囁きが聞こえてきました。
「やっぱり諦めて戻らないか。この道は火の中を進むように、いつも不安で苦しい道だ。あなたのようなものがとても渡り切ることなんて出来ない。間違いなくどこかで火の河か水の河に落ちて死んでしまうだろう。それよりも戻った方がずっと楽かもしれない。盗賊や猛獣たちだって私を苦しめると決まった訳ではないぞ。私の思い過ごしかもしれない。」
そのように心から聞こえることがあっても、旅人はその囁きに耳を貸すことなく、ただ西に進む以外に幸せはないと信じて一歩一歩進んでゆくと、まもなくして向こう岸に到着し、火の河や水の河に落ちるのではないかという不安、また、盗賊や猛獣たちに切り刻まれ、食い殺されるという怖れから永遠に離れることができるのである。そして、今まで見えない手によって旅人を支えて下さった方とお会いすることができ、旅人は大いに喜びました。
これは譬えである。次にこの譬えを説明しますと、「東の岸」というのは、煩悩に塗れ、煩悩を満たすことが幸せだと思って追い求めている穢土である。この穢土では、楽しみを求めることは、そのまま苦しみを抱えることになり、常にいつ苦しみがやってくるか分からない不安の中で生きていかなければならない。「西の岸」というのは、浄土のことである。「旅人を最後は襲い苦しめる盗賊や猛獣たちが旅人を騙し、親しげに接してくる」というのは、私たちがこの肉体から吹き上がる、様々な欲求に振り回され、その間に人生が終わってしまうことを譬えている。「無人空迥の沢」というのは、この人は友達だと思っている人は実は表面的な付き合いしかできておらず、実際は損得勘定抜きで私のことを思ってくれる人は一人もいないことを譬えている。「水火の二河」とは、水の河とは、私たちの欲を満たすことに心を奪われている姿を現し、火の河は怒りや憎しみで我を忘れている姿を現す。共に、現実を誤魔化す為に起こすもので、現実と向き合うと理想の自分が崩れ苦しいので、欲や怒りに逃げて現実を見ないようにしているのである。だから、仏法を求めるとは、今まで自分が見ないようにしていた現実と向き合い、それを通して知らされる真実の自分を受け入れていくことなのです。これが火と水の河の間にある白道のことで、私たちがあまりにも現実と向き合いたくなく欲や怒りに逃げてしまうので、火の河、水の河とたとえ、その中、現実と向き合うことがあまりにも難しく、すぐに現実から目をそらし逃げてしまうので、四、五寸の幅しかない白道であると譬えているのです。また、「水波つねに道を湿す」というのは、折角、心に余裕が出来たとしても、その余裕を現実に向き合うことや他人の為に使うことを出来なくさせてしまうものが、執着の心である。私たちはいつも執着の心によって、欲を満たすことしか考えなくなる。忙しそうな人がいるから、少しでも楽にしてあげようと思って手伝ってあげると、その人は楽になった分、仕事を増やし、結局、楽になることはない。また、自分の仕事を他人に押し付けて、楽になりたいと思っている上司がいざ楽になると、仕事を増やし、自分は忙しいのだとアピールする。また、世の中の人は暇ができると欲を満たすことしか考えず、欲を求め、欲に振り回され、へとへとになる。お金も自分の日々の生活を削ってでも、ひと時の快楽の為に大金を投入する。だから、みんな時間がない、お金がないと嘆いている。でも、どんなにお金があっても、それを欲に使っていたら足りないし、また、どんなに時間が出来ても、それを欲を満たすことに使ってしまったら、忙しくなる。だから、みんな忙しいし、みんな余裕がない。とても、他人のことなど考える余裕はないし、自分の人生と向き合うことなど、一生ないのである。また、「火焔つねに道を焼く」とは、現実を通して自分の嫌な部分が少しでも見えると怒りを起こして、これは自分ではないと現実を否定する。その為にせっかく、今まで苦労して積み上げてきた人間関係も一時の怒りで焼き尽くしてしまう。多くの人は自分の人生苦労してきた、というが、実際は苦労したのに報われていないことが多い。それは、せっかく苦労しても怒りの心を起こすと今まで積み上げてきたものが崩れてしまうからである。もちろん、その後、人間関係を修復するように謝ってゆけばいいのだが、それはそのまま現実と向き合うことになるので、どうしてもできない。だから、結局、人間関係が切れたら切れたまま、放っておいて、信じられるのは自分だけと一人で頑張るようになる。こんなことを繰り返してきたので、どんなに苦労しても、その苦労が報われないのである。「人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ」というのは、現実と向き合い、そこに見える真実を受け入れてゆくことである。それは今まで自分だと思っていた理想の自分(我)を崩すことになるので、痛みを伴う。でも、その苦しみを乗り越えて、現実を受け入れてゆくことによって、本当の意味で苦しみのない世界へと出ることができるのである。「東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む」というのは、お釈迦様がすでにこの世にはいないが、お釈迦様の説き残された教えを通して仏教とはどんな教えなのかを理解できる善知識が現れ、そのお釈迦様の御心を正しく教えて下さることを言います。「あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚び回す」というのは、善知識の教えに従って現実と向き合い、二河白道を進み始めたと言っても、本当に教えを理解した訳ではないので、その心は煩悩の楽しみを求め、少しでも楽したい心一杯、その為に、何か苦しいことにぶつかるとすぐに今までの方が幸せだったと思って、穢土へと戻ろうとする心を教えられています。「西の岸の上に人ありて喚ばふ」というのは、現実を通して真実の自分を見せ、それによって理想の自分に対する執着を離れさせ、浄土に往生させてあげたいという阿弥陀仏の御心を言います。「須臾に西の岸に到りて善友あひ見て喜ぶ」というのは、私たちは善知識から教えを聞かせて頂くまでは、我によって生み出された理想の自分を自分だと思い込み、我を崩さないように生きてきた。その為、現実と向き合うことができず、欲や怒りなどの煩悩を起こしては現実を誤魔化し、苦しみ続けてきた。そんな私たちが今、真実の仏法を説かれる善知識にお会いすることができ、その方から、私たちが苦しみから離れる為には現実と向き合うしかないと教えられ、また、阿弥陀仏の光明に照らされて、今までの人生は苦しみしかなかったと知らされ、どこへ逃げても今までの人生を繰り返すだけで絶対に幸せはないと知らされた。だから、今、善知識の教え、また、阿弥陀仏の光明に支えられて、この二河白道を進んでいくことができるのである。そして、この肉体に宿る認めてもらいたい、大事にしてもらいたいと激しく求める愛欲の広海の心が死んだ時、初めてたとえ自分が苦しんでも他人を幸せにしてあげたいと思う仏心が私の心に生まれるのです。それによって、この世界に働いている仏性の働きを見ることができ、仏教のすべてを理解することができるのです。また、善知識の教えを通して仏教を本当に理解したながら、今まで自分がやってきたことは、ただ苦しみの輪を回るだけで、どんなに苦労しても意味がないことが知らされる。だからこそ、この苦しみから離れたいという気持ちが起きるのである。それは、仏教を深く理解すればするほど、自分のすがたがよく見えるようになり、意味のないことをしていたことがよく知らされる。もちろん、始めは、自分のすがたがあまりにも惨めなので、煩悩が吹き上がり、どうしても認めたくないと否定するが、どんなに否定しても一度知らされた真実は現実を通して見せつけられ、誤魔化すことができない。だから、最後には観念して、こんな苦しみに満ちた世界から離れたいという心になるのである。この気持ちは、真実が知らされることによって起きたならば決して崩れることなく、自分の心の中心にいつもあり、忘れることがない。これが回向発願心である。また、回向発願心とは、もう一つ意味がある。それは、浄土に往生した人はその心に仏心が生まれるので、この心に引かれて、苦しんでいる人たちを助ける為に、自ら穢土の中に飛び込み、人々の手を引いて、浄土まで、相手の心を支えながら、進んでゆくのである。これも回向発願心である。この三つの心が起きたならば、心が起きて実行に移すことはないというようなものではなく、必ず現実と向き合い、二河白道を進んでいくことができる。だから、このように二河白道を進んでいる人が浄土に往生できないことがもし仮にあったとしたら、それは浄土そのものがないということがない限り、ありえないことなのである。また、この三心を起こして二河白道を進む姿を現したものが、定善の教えなのである。

(補足)
どうしたら、浄土に往生することができるか?
そのことについて、観無量寿経の中には、至誠心、深心、回向発願心、この三つの心が備わったら、浄土に往生できると教えられています。ですから、浄土を目指すものは、みんなこの三つの心になれるように求めていかなければなりません。では、それぞれ、どんな心なのか。まず、最初の至誠心とは何かと言いますと、裏表のない正直な心のことです。私たちはどうしても他人の目を意識して、他人が見ている前ではいい格好しようとします。これを親鸞聖人は「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐いている」(他人が見ているところでは、賢い姿を見せたり、良い人だと思われるように振舞ったり、頑張っている姿を示して、他人が見ていないところではやらない。それはどんなに頑張っていても、表面的なものに留まり、それが本物になることはない)と教えられていますが、こんな裏表のある心で他人が見ているところだけ頑張っていても、それで現実が何か変わることはない。だから、浄土に往生しようと思う人はまず裏表のない正直な心にならなければならない。では、どうしたら正直な心になれるのでしょうか?その為には、自分の存在価値を高めてゆくことが大切です。私たちは仏法とご縁がある前は、存在価値の大切さが分からなかった為に、何にでも我をつけて、それを粗末に扱い、存在価値を下げてきた。だから、自分に自信がなくなり、どうしても他人前でいい格好しようしてしまったのである。自分に自信がない人ほど、ブランド品で身を固めたり、高級車に乗ったり、権力やお金を求めたりする。それは、そういうもので自分を飾ることによって、自分の存在価値を認めさせようとしている。でも、どんなにそんなもので自分に自信をつけたとしても、それは自分の身に備わったものではないので、心の奥底では自信のない弱い自分が隠れている。それを他人に見せないように、我を強くして、心に壁を作り、偉そうにして上から目線で、相手を馬鹿にするのである。そんな人がたとえ仏法を聞き、浄土に往生しようと思ったとしても、他人にいい顔するだけの表面的なことしかできないのである。では、どうしたら、自分の存在価値を高めることができるのでしょうか。その為には、まず、なんでもかんでも、我をつける習慣をなくさないといけません。私たちは、自分の存在価値を確認する為に、自分の我をつけたものが他人からどのように扱われているか確認します。だから、価値のあるものに我をつけたら、他人から大事にされ、自分に自信が持てるようになりますし、反対に、価値のないゴミのようなものに我をつけたら、他人から粗末にされ、ますます自信を失うことになります。だから、何にでも我をつける人は、価値のあるものも、ないものも見境なく、我をつけ、その結果、その我をつけたものを自分が粗末に扱うようになります。だから、そんなものに囲まれて暮らしていたら、自分の存在価値はどんどん下がり、自信が無くなって、他人前だけは格好つけてよく見せよう振る舞うようになります。でも、その人と、どんなに親しくなったとしても、表面的なお付き合いしかできず、一歩相手の心に踏み込むと、嫌われて人間関係を切られてしまいます。これが裏表のある人です。このような人はどうしたら、存在価値を高めることができるのでしょうか?その為にはまず、整理をしなければなりません。整理とは、我がついている物の中で、使っているものを残して、使っていない物を捨てることです。なぜ、使っていない物を捨てなければならないのかというと、使っていない物は大事にできないからです。ここで大事にするとは、汚れないように、いつもしまっておくことではありません。大事とは、いつもそれを選んで使ってあげることです。だから、自分の中でどんなに、これは大事な物だと思っていても、使っていない物は大事にしてはいないのです。だから、自分にとって何が大事な物か気づく為に、まず、使っていない物を捨てなければならないのです。この時、どんなに仏法を聞いて、整理をしなければならないと頭では分かっていても、実際に捨てようとすると執着を断ち切ることができず、捨てられないものです。それは、捨てることによって、もう二度と使うことができないと思うからです。持っていればいつか使うことができる、でも、捨ててしまったら、もう二度と使うことはできない。だから、勿体無くて捨てられないのです。でも、そうやって持っていることは、同時に、色々な意味で自分の余裕を奪ってゆきます。まず、物を置けば、それだけ場所を取りますし、執着すれば心の余裕を奪います。また、使おうとしたら、時間を必要とします。使わない物とは結局は自分にとって、優先順位の低いものなんだと思います。もちろん、まだ、使おうと思ったら、使えるけど、他にもやりたいことがあって、いつも後回しにされているから使わないのです。あれもやりたい、これもやりたいと私たちは思っているけれど、実際には、同じ時間にやれることは一つ。だから、何かを選んだら、それはそのまま、他のことを捨てているのです。ところが、多くの人は何かを選ぶことによって、何かを捨てていることに気づいてはいません。自分の選んだ選択肢は、他のすべての可能性を捨てて選んだものだという自覚がないから、安易に選ぶし、嫌になったら放り出して次のことをやろうとする。そうやって、一度しかない人生がどんどん過ぎ去っていくのだが、本人はそんな自覚は全くない。自分がどんな人生を選んできたか知りたければ、整理をしてみたら分かる。整理をして残ったものが、自分の人生そのものであり、今まで自分が選んできたものなのである。たとえば、いつも欲に振り回されて生きてきた人は、使っていない物を完全に捨ててしまうと、そこに残るのは、代わりがきく物とボロボロになって価値が無くなった物しか残りません。結局、この人の人生は常に楽しい物はないか、目移りしながら探し回り、自覚はないけれど、何かを手に入れては、何かを捨て、捨てているという自覚もないまま、物だけが増えてしまったのです。そして、いつも側にあった物は見ておらず、粗末に扱い、結果的にボロボロにしてきたのです。しかし、そんな悲しい生き方をしていることには、整理をするまで気づきません。いや、薄々気づいてはいるけれど、認めたくはないから、あえて整理をしないのかもしれません。整理とは、理想の自分のイメージを崩し、現実と向き合う方法です。しかし、長く生きてきた人ほど頑張ってきているので自分の人生何もなかったとか、ボロボロだったという現実を認めることはとてもできません。そんな人ほど自分の理想のイメージにすがりついて、現実を見ようとしません。たとえ、少し見えたとしても、すぐに欲や怒りを起こして都合の悪い現実を誤魔化して見ないようにしてしまうのです。では、こんな人はどうしたら現実を受け入れることができるのでしょうか?そこで、こんな話があります。ある男が地獄と極楽を見物したいと思って閻魔様に頼んでみた。そこで特別に見物を許されたので、まず地獄から行くことにした。地獄に着いて見るとちょうど地獄はお昼時、意外にも地獄の食卓には山海の珍味が並んでいた。そこへ地獄の罪人が我先にというようにやってきた。その罪人たちはガリガリに痩せて血色が悪い。男はどうしてあの山海の珍味を食べていながら、あんなにも痩せて血色が悪いのかと不思議に思っていると食事が始まった。見ると罪人たちは二メートルもあるかという長い箸を使って、食べ物をとって何とか口に入れようとしている。ところが、箸が二メートルもあるものだから、どんなに食べ物を口に入れようとしても上手く入らない。山海の珍味を目の前にして一口も食べられない苦しみはどれほどのものだろうか。そう想像しながら男は見ていた。結局、罪人たちは食べ物を口に入れようと格闘した結果、一口も食べれず、ヘトヘトになって食事を終えた。そこで今度は男は極楽へ行ってみた。着いて見ると極楽もちょうど食事時、そこにはやっぱり山海の珍味が並んでいた。そこへ極楽の人たちが集まってきた。見ると、みんなふっくらとしていて、血色もいい。そして、みんなが集まると一斉に食事が始まった。見ると極楽の人たちも手にはあの二メートルの箸を持っている。男はその箸でどうやって食べるのだろうと興味津々で見ていると、なんと極楽の人たちは、その箸でとったものを自分の口には入れず、相手の口に入れてあげるではないか。そして、自分が相手の口に食べ物を運んであげると今度は相手が自分の口に食べ物を運んでくれる。こうやって見ると、二メートルもある箸の方が相手の口に運ぶのにはちょうどいい。やっぱり極楽の人は心がけが違うなあと男は思って帰ってきた。ここで地獄と極楽の食事は何を例えているのかと言えば、自分のお金を誰の為に使っているのかということです。地獄の罪人たちが、二メートルもある箸で山海の珍味をつまんで食べようとした姿とは、私たちが自分のお金を自分の為に使っている姿です。確かにお金があれば、好きな物を買って自分のものにすることができます。それはちょうど地獄の罪人が山海の珍味を箸でつまんでいるようなものです。でも、どんなに好きなものを買って自分のものにしても、それで幸せを味わうことができなければ意味がありません。それはたとえるならば、地獄の罪人が食べ物を口に入れることができず苦しんでいるようなものです。だから、どんなに高価なものを買ったとしても、決して長く大事にすることはせず、すぐに飽きて他のものが欲しくなるのです。反対に、極楽の人は自分の箸でとったものを他の人に食べさせてあげます。これは、自分のお金を自分の為に使わず、相手の為に使ってあげることです。ここで大事なことはせっかく、お金を相手の為に使っても、相手がそれを使ってくれなかったら、意味がありません。それはたとえるならば、極楽の人が相手の為に食べ物をとってあげたとしても、相手はそれを食べなくて、他のものを食べている状態です。だから、相手の為にお金を使う時には、相手が今何を必要としているのか、正しく理解しなければなりません。そういう意味でも、相手の為にお金を使う前に、その相手がちゃんと整理しているかが大事になってきます。そして、相手に整理をしてもらったら、次にその相手が今使っているものが使えなくなって交換する時に、自分のお金で相手の使う物を買ってあげましょう。そして、自分も同じように日頃使っている物は相手に買ってもらうように心がけてください。この時に大事なことは、自分が欲しいものを買ってもらうわけではありません。自分が日々使っているものを買ってもらうことが大事なのです。どうしても私たちは他人に買ってもらうとなると日頃自分では買えないものを買ってしまいがちです。しかし、実はそんな高価なものを買ってもらうよりも、自分のお小遣いでもすぐに変えてしまえるもの、子供なら学校で使うノートや消しゴム、筆箱など余りにも身近にある当たり前のものを買ってもらう方がいいのです。いつも使う物を身近な人から買ってもらった、自然と今まで当たり前のように見ていた日用品も心がかかるようになります。そして、いつも使う物を乱雑に使っていた人も段々と大事に使えるようになり、存在価値も高くなってゆくのです。そうすれば、今まで執着して捨てられなかったものも捨てられるようになり、自分の現実も受け入れることができるようになるのです。また、存在価値が高くなると他人の目を気にして、他人の前で格好つけてよく見せようとすることがなくなり、どんな人に対しても素直で正直に接してゆこうとするようになります。これが至誠心です。至誠心になって仏教で教えられていることを真面目に実践しようとする心になるのです。この心が次の深心です。深心とは、善知識から教えて頂いたことを深く理解して実践してゆこうとする心です。どんなに善知識が分かりやすく話をしていたとしても、聞く人がそれをいい加減に聞いていたら意味がありません。仏法は聴聞に極まると言われますが、それはただお話として聞いているのではなくて、自分の人生の指針として聞いていくことが大事なことなのです。しかし、存在価値が低い間は、どうせ俺なんて何をやってもダメなんだと思ってみたり、今の自分の姿が惨めなのですぐに自分を変えたい、そして、ちょっと良くなるともう自分は変わったのだと思って、調子に乗って努力をやめてしまう。そして、調子に乗ってやっている間に何か上手くいかないことがあって失敗するともう自分は何をやってもダメなんだと酷く落ち込み、投げやりになる。そんなことをただ繰り返しているだけなので、時間が過ぎてゆくだけでちっとも自分は変わらない。それが存在価値の低い時の姿です。ところが、段々と存在価値が上がってくると自分に自信がついてきて、もっと自分を成長させてゆきたいと思うようになります。そして、仏法の教えを信じて自分の現実を変えてゆきたいという気持ちに変わるのです。では、どうしたら、仏法を正しく聞くことができるのでしょうか?そのことについて教えられているのが、五正行です。五正行とは五つの正しい行いということで、この五つのものとは、1、読誦正行、2、観察正行、3、礼拝正行、4、称名正行、5、讃嘆供養正行です。これは、仏法を正しく聞いてゆく方法について教えられたものです。まず、最初の読誦正行とは、善知識から教えて頂いた教えをよく聞くということです。まず、どんなことを教えられているか理解しなければ、仏法は分かりません。その際、大事なことはたくさんのことを聞くよりも、まず一つのことを正しく理解することです。特に何度も聞いて分かっているつもりになっているものを何度も聞くといいです。この時、自分の理解が正しいかどうか、よく分かっている人に確認してもらうことも大事なことです。仏教は教えを正しく理解することがとても大事なことです。思い込みでだいたいこんなことだろうと思って聞くのではなく、一つのことを他人にも話ができるように理解していくことが大事です。その際、少しでも分からないことがあったら、ためらわず善知識に聞いて下さい。確かに説法を真剣に聞くのも大事ですが、それ以上に分からないことは素直に確認し、一つのことを正しく理解していくことはもっと大事なことです。これが読誦正行です。次に観察正行とは、聞いたことを自分に引き当てて聞くことです。教えられたことを無理に実行しようとはせず、自分がもし実践するとしたら、どうしたらいのか、そこで問題になることを一つ一つ確認して下さい。決して自分の判断であのように全体の前で話されたのだから、自分もやったらいいだろうと思わないで下さい。仏法には真実と方便が教えられています。どんなに教えられたことが真実であったとしても、それが今の自分に必要であるかどうかは善知識に確認しないと分かりません。常に善知識に確認し、教えられたことを自分に合わせてゆく。そして、実践に移すのです。仏法は真実ですから正しく理解し、自分にあった教えを実践したら必ず知らされるものがあります。それが、観察正行です。そうやって、真実が知らされると、その真実に対して心から頭を下げ、従わずにはおれなくなります。これが礼拝正行。そして、仏法を実践して真実が知らされてくると真実が知らされた喜びが必ず起きてきます。これは単に仏法聞けてよかったというような喜びではなく、自分が実践して知らされたことについて、苦労したけれど、この真実が知らされて本当に良かったという喜びです。それは自分の抱えている現実と向き合った人でなければ知らされない喜びです。この喜びを称名正行と言います。そして、知らされた真実のある人は自分の知らされた真実を他人にも伝えずにはおれなくなります。また、同時に仏法に教えられている深い教えを知りたいという気持ちになるのです。それが最後の讃嘆供養正行です。これが五正行です。結局、仏法を正しく聞くとは、ただ文字を暗記することではなく、一つのことを本当に納得するところまで聞き、確認し、そして、自分に合わせて実践する。そして、そうやって知らされるものが真実であり、その真実を一つ一つ増やしてゆくのが、聴聞なのです。これが深心です。最後の廻向発願心とは、そうやって仏法を聞かせて頂き、その教えを深く理解したならば、必ず現実と向き合う心が起きます。その心の道程について教えられたものが二河白道です。

(四・般舟讃一文)

(真宗聖典p331)
またいはく(般舟讃 七一五)、「敬ひて一切往生の知識等にまうさく、大きにすべからく慚愧すべし。釈迦如来はまことにこれ慈悲の父母なり。種々の方便をして、われらが無上の信心を発起せしめたまへり」と。{以上}

(意味)
「失礼ですが、浄土に往生した方に言いたいことがあります。是非、自らの認識不足を反省して頂きたい。智慧がなく苦しんでいる人の苦しみを除き、浄土まで導くことができるのは、浄土に往生した人だけである。だから、その自覚があったお釈迦様は苦しむものの私は親なんだと思って、子供を何十年とかけて育てるように慈悲の心で接し、様々な方便を使って、人々が浄土に往生し、菩提心が起きる所まで導いて下さった。だから、往生された方々よ。あなたには、あなたしかできない使命がある。自分の苦しみが取り除かれたからと言って、のんびりしている暇はない。苦しんでいる人たちはあなたの助けを待っています。その人たちを助けることは、時間がかかり、とても骨が折れることかもしれないが、是非、その人たちの親となって育ててあげて頂いてほしい。」

[三・円照・貞元録一文]

(真宗聖典p332)
『貞元の新定釈教の目録』巻第十一にいはく、「『集諸経礼懺儀』[上下] 大唐西崇福寺の沙門智昇の撰なり。貞元十五年十月二十三日の勅に准じて編入す」と云々。『懺儀』の上巻は、智昇、諸経によりて『懺儀』を造るなかに、『観経』によりて善導の『礼懺』(礼讃)の日中の時の礼を引けり。下巻は「比丘善導の集記」と云々。
かの『懺儀』によりて要文を鈔していはく、「二つには深心、すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づくと。{乃至}〈それかの弥陀仏の名号を聞くことを得ることありて、歓喜して一心を至せば、みなまさにかしこに生ずることを得べし〉」と。{抄出}

(意味)
さて、ここで苦しんでいる人を助けるべき使命を持った往生人とはどんな方と言いますと、それは真実の信心を得た人である。この方は、ご自身は心に常に欲や怒りの心が強く現実と向き合うことができない為に穢土から離れることができないものであるとハッキリと知らされたと同時に、あなたの心にある信心はあなたの心を引っ張り現実から逃げないようにしてくれていることがハッキリ知らされているでしょう。だから、あなたはこの信心の力を信じて、仏法を説くことによって苦しんでいる人と向き合い、その苦しみを取り除いてあげなさい。そうすれば、そのままあなたの穢れも取り除き、浄土に往生することができるとハッキリと知らされるでしょう。このような人が現れて、その教えを聞いてゆけば、みんな浄土まで往生することができるのです。

[四・源信・往生要集二文]

(真宗聖典p332)
『往生要集』(上 九二一)にいはく、「〈入法界品〉にのたまはく、〈たとへば人ありて不可壊の薬を得れば、一切の怨敵その便りを得ざるがごとし。菩薩摩訶薩もまたまたかくのごとし。菩提心不可壊の法薬を得れば、一切の煩悩、諸魔怨敵、壊することあたはざるところなり。たとへば人ありて住水宝珠を得て、その身に瓔珞とすれば、深き水中に入りて没溺せざるがごとし。菩提心の住水宝珠を得れば、生死海に入りて沈没せず。たとへば金剛は百千劫において水中に処して爛壊し、また異変なきがごとし。菩提の心もまたまたかくのごとし。無量劫において生死のなか、もろもろの煩悩の業に処するに、断滅することあたはず、また損減なし〉」と。{以上}

(意味)
『往生要集』(上 九二一)の〈入法界品〉に次のように教えられています。「たとえるならば、ある人が不死の薬を飲んだとしたら、たとえ、その人のことを殺したいほど憎んでいる人がいて、メッタ刺しにされたとしても、その人は傷一つつかない。それと同じように菩薩も阿弥陀仏から他力の信心を頂いたならば、どんなに心に煩悩が吹き上がったとしても、また、苦しいことから逃げたいと誘惑が起きたとしても、菩薩の心に燃える菩提心の火を消すことはできない。また、この他力の信心をたとえるならば、真実をありのままに見ることのできる第三の目を植え付けられた人がいたとしたら、その人はどんなに世の中の人達が欲望を追い求めて生きていたとしても、常に第三の目を通して、欲を満たすことの虚しさが見えるので、世の中の人たちと同様に欲を満たすことが幸せとは思えない。それと同じように、他力の信心は常に世界をありのままに見せるので、どんなに世の中の人たちが煩悩に振り回されていたとしても、その人の心まで同じように煩悩に振り回されることはないのである。

(真宗聖典p333)
またいはく(往生要集・中 九五六)、「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつるにあたはずといへども、大悲、倦きことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」と。{以上}

(意味)
まだ、浄土に往生していない私たちは、智慧がなく、苦しみとぶつかると欲や怒りなど煩悩が吹き上がり、すぐに現実と向きあう事から逃げてしまうけれど、善知識や目に見えない阿弥陀仏の光明に支えられて、現実から逃げても苦しみしか待っていないと知らされ、また、現実と向き合うことができるのである。


 
 
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