教行信証5 p305-313
 
 

教行信証

(真宗聖典p305)
良に知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしと雖も、信心の業識に非ずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これ則ち内因とす。光明名の父母、これ則ち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。故に宗師(善導)は、「光明名号を以て十方を摂化したまふ、ただ信心をして求念せしむ」とのたまへり。また「念仏成仏これ真宗」(五会法事讃)といへり。また「真宗遇ひ難し」(散善義)といへるをや、知るべしと。

 ハッキリと知らされた。浄土に往生するためには、念仏という因と光明という縁が和合しなければならない。しかし、いくら念仏を続けていたとしても、私たちの阿頼耶識の中に阿弥陀仏からたまわった信心がなければ、浄土に往生する事はできない。だから、浄土へ往生するための因は真実信心であり、その真実信心を頂いた心に光明と念仏という縁を続けていく事によって、浄土へと往生することが出来るのである。このような理由があるから、善導大師は往生礼賛の中で「阿弥陀仏は光明と名号によって、すべての人を浄土まで摂め、導こうとされている。ただ信心のある人だけが、そのお力によって浄土に往生できる。だから、その信心を求めなさい」と言われている。また、法照は五会法事讃の中で、「念仏成仏こそ真実の宗教である(阿弥陀仏のお力によって功徳を頂き、その功徳によって仏になる事こそ、真実の仏教である)」と言われ、また、善導大師の散善義の中には「仏教の本当の心を知ることは、中々できない事である」と言われている。この事をよく知りなさい。

※つまり、善導大師と法照の言葉を通して、ここで何を言われたいのか考えてみますと、「阿弥陀仏の救いは、聴聞によって善知識から本当の仏教を聞かせて頂き、それによって仏教の教えの奥にある言葉では表す事のできない心が知らされることによって、聴聞を通して、自分の間違いを正し、浄土へと往生する事が出来るのである」という事を言われたいのではないかと思いました。

(真宗聖典p305)
凡そ往相回向の行信に就いて、行に則ち一念有り、亦信に一念有り。行の一念と言うは、謂く称名の遍数に就いて、選択易行の至極を顕開す。故に『大本』(大経・下)に言はく、仏、弥勒に語りたまはく、其れ彼の仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんこと有らん。当に知るべし、此の人は大利を得と為す。則ち是れ無上の功徳を具足するなり。{以上}

※往相廻向…中国の曇鸞の主著「浄土論註」の中に、自分の行に応じた善行功徳をもって他の人に及ぼし、自分と他人と一緒に、弥陀の浄土に往生できるように願うことが、往相回向であるとする。親鸞は、往相回向も還相回向も共に、阿弥陀仏によって回向された他力によるものであるとして、自分の力をたのんで善行功徳を行じる自力を排し、すべてが阿弥陀仏の本願力によるものとされた。

※回向…自分の修めた善行の結果が他に向かって回(めぐ)らされて、所期の期待を満足することを言う。善行の報いは本来、自分に還るはずだが、大乗仏教においては一切皆空であるから、報いを他に転回することが可能となる。回向の心をもって修行する段階を十に分け「十回向位」とし、悟りへの重要な修行過程とする。自己の善根を仏果に向け、自我への執着を除去しようとする。「善根」は常に自ら以外の方向に振り向けられて「功徳」となり、我執が除去される。ここに回向の必然性がある。善根が積み重ねられて仏となるのではなく、ずべての善根は回向される事に意味がある。

 およそ往相回向(阿弥陀仏から浄土へ往生するための功徳を頂き、また、その功徳を自分のためだけでなく、また周りの人の苦しみを取り除く為に与えて、自分もまた周りの人たちも共に浄土へと往生していくこと)の為の修行と教えを正しく理解する事によって、心に起きる信心についてそれぞれ一念がある。この「行の一念」というのは、称名によって阿弥陀仏から功徳を頂き、その功徳によって浄土へ往生しようと思い称名に励むことが、他に浄土へ往く様々な方法の中で、阿弥陀仏が私たちのために選ばれた方法であると知らされ称名に励んでいく最初の称名を言うのである。この故に「大無量寿経」の中に次のように教えられています。「お釈迦様は弥勒菩薩に対して語られました。それ無明が一念で破れ、阿弥陀仏の名号を聞く事ができたならば、その人は大きな喜びが起きるであろう。なぜ喜びが起きるのかと言えば、よく知りなさい。この人は、無上の功徳が身にそなわり、大きな幸せを得たからである」

※阿弥陀仏の名号を聞く事ができた時が信の一念、それによって口から説法が出た時が行の一念です。

(真宗聖典p306)
光明寺の和尚(善導)は「下至一念」(散善義・意)と云えり。又「一声一念」(礼讃)と云えり。又「専心専念」(散善義・意)と云えり。{以上}
智昇師の『集諸経礼懺儀』の下巻に云く、「深心は即ちこれ真実の信心なり。自身は是れ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。今、弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、定んで往生を得と信知して、乃至一念、疑心有ること無し。故に深心と名く、と。{以上}

 善導大師の散善義の中に「下至一念」(これは、「上尽一形下至一念」の下至一念。意味は、上は一形を尽くし下は一念に至るまでという事で、一形とは、念仏行のこと。念仏行とは、一般的には、口で南無阿弥陀仏と称えることだと考えているが、実際は、善知識から教えを聞いていくこと。それによって浄土に往生することができ、浄土往生できた一念を、ここで下至一念と言われています)この事を往生礼賛には「一声一念」と言われ、他には「専心専念」とも言われています。
また、智昇師の「集諸経礼懺儀」の下巻には、次のように教えられています。深心とは、即ち真実信心である。この深心とは、疑いの心が全くない程深く知らされたことを言われ、それは自分の事、そして、弥陀の本願についてである。自分については、私は欲や怒りから離れることが出来ない凡夫であり、その煩悩が功徳を積むことを妨げてしまうために、功徳を積むことができず、その為に三悪道を離れ苦しみから離れる事が出来ないのだ、とハッキリ知らされました。

※私たちには、誰しも一人一人「これは正しい、これは間違っている」という善悪の基準があり、その基準に従って悪い事をやめ、善いことをしている。その善悪の基準が正しいと思うからこそ、何も疑問を起こすことなく、頑張ることができるのである。そして、私たちは無意識のうちに、自分が今まで頑張ってきたことを心の支えにして、「こんなに頑張ってきたのだから、私に悪い事がやってくることはないだろう」と安心して生きているのです。だから、頑張ってきた人ほど、思い通りにならないことにぶつかると「こんなに頑張ってきたのに、私がこんな目に会うことが信じられない」と思って、現実を受け入れる事が出来ず他人のせいにしてしまうのです。私も色々な人に話をしてきて感じることですが、皆、それぞれ自分の中で固く信じているものがあります。例えば、ある人は「死んだら阿弥陀仏が迎えに来てくれる」と信じて、自分の中にある善悪の基準に従って、一生懸命、何十年もの間、頑張って善に励んできた人がいます。その人は、「こんなにも善に励んできたのだから、私は極楽に往生できるのだ」と固く信じているのです。浄土真宗では、このように自分のやった善をあて力にする事を自力と言われ、この自力を捨てなければ、信心を頂くことはできないと教えられています。「私はこんなにも、人に迷惑をかけないように頑張ってきたのだから」とか「私は他人のために、一生懸命頑張ってきた」とか、そういうものが頑として心の中にあり、正しい教えをはねつけてしまうのです。この自惚れが打ち砕かれ、「あぁ、自分が正しいと信じてきたものは、間違っていたのか」と知らされた時、教えを純粋に受け取れる心になれるのです。このような心の状態になったことを機の深信と言われます。次に、弥陀の本願についてハッキリと知らされる、とは、「これより先、善知識の教えに従い、聴聞していくことによって、自分の間違った考えを正しい考えへと改めていき、往生できる」とハッキリと知らされました。このように、自分について、また、弥陀の本願について、ハッキリと知らされた事を「深心」というのです。

(真宗聖典p306)
『経』(大経)に「乃至」と言い、釈(散善義)に「下至」と云えり。乃下、其の言、異なりといへども、其の意これ一つなり。復、乃至とは一多包容之言なり。

 「大無量寿経」の中では、「乃至」と言い、「散善義」の中では「下至」と言われている。この「乃」と「下」は言葉は異なるけれども、共に同じことを言われている。また「乃至」という言葉は、たとえば乃至一念という言葉は、一念に到達するまで念を続けていき、その最後に一念があるという事で、念念念…一念と書くことができないので、一念までの間の念を乃至という言葉に含めて、乃至一念と表しているのです。

(真宗聖典p306)
大利と言うは、小利に対せる之言なり。無上と言うは、有上に対せるの言なり。信に知んぬ、大利無上は一乗真実の利益なり。小利有上は則ち是れ八万四千の仮門なり。

 「大利」とは小利に対する言葉である。「無上」というは有上に対する言葉である。ハッキリと私は知らされました。「大利無上」とは、一乗を体得し、それによって真実が知らされた幸せを言うのです。「小利有上」は八万四千の教えであり、それは一乗真実へと導くための方便の教えである。

※一乗真実とは何か?一乗とは、相手の苦しみを自分の苦しみのように感じ、その苦しみを取り除き、相手を幸せにしてあげる事が自らの喜びとなった人を言います。一般的に、一乗を得た人を菩薩と言い、その人だけが仏になることができる、と言われています。真実とは、物事の本質を見抜き客観的に見る力で、この真実から他のすべての教えが生まれてきます。無量義経には、これを
「性欲無量なるが故に説法無量なり、説法無量なるが故に、義も亦無量なり。無量義とは一法より生ず。其の一法とは即ち無相なり。是の如き無相は相なく、相ならず、相ならずして相なきを名けて実相とす」人々の性格や望んでいるものは一人一人違うので、その人たちを導くための説法も、また人の数だけ増えていく。だから、仏教に教えられている事も、それだけ沢山の教えとなるのです。しかし、教えは沢山あっても、その元にあるものはたった一つの教えから生まれている。丁度、太陽の光は一つであっても、その光が物に当たって出来た影は無数にある様に、お釈迦様の説かれた教えは、その無数に出来た影の一つ一つである。その影を作った元である光は、物に当たって初めて形を持つので、光自身は形を持たないように、無量義を生み出す一法もまた形がなく、その力によって物事の真実の相を明らかにしてくれるのである。

(真宗聖典p306)
釈(散善義)に「専心」と云えるは即ち一心なり、二心無きことを形す也。「専念」と云えるは即ち一行なり、二行無きことを形す也。

 「散善義」の中で「専心」と言われているのは、すなわち、一心の事である。一心とは、闇が晴れ真実が明らかになったために、仏教に対して心が一つになり、もう迷うことがなくなったことを言われるのです。「専念」というのは、一心になった心が行いという形にあらわれたもので、それは仏教の教えの通り実践できるので、一行と言われるのです。

(真宗聖典p307)
今、弥勒付属の一念は、即ち是れ一声なり。一声即ち是れ一念なり。一念即ち是れ一行なり。一行即ち是れ正行なり。正行即ち是れ正業なり。正業即ち是れ正念なり。正念即ち是れ念仏なり。即ち是れ南無阿弥陀仏なり。

 今、大無量寿経で、お釈迦様が弥勒に対して語られている一念とは、真実を説法という形であらわれる一声のことであり、一声となるのはその心が一念になったからである。一つの念いになったことは、教えに従った一つの行という形となってあらわれ、それこそ、阿弥陀仏に対して正しい行となるのです。つまり、一念を体得し、その力によって説法していくことが正行であり、この正行によって自分の間違いが知らされ、反省し、正され、邪見が正見となっていく。このようにして正見となった振る舞いを正業と言われ、正業となることによって、正しく思いをめぐらす事ができ、それによって、真実を念ずることが念仏であり、このようになったことを南無阿弥陀仏になった人と言うのです。

(真宗聖典p307)
しかれば大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。即ち無明の闇を破し、速かに無量光明土に到りて、大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべし。

※大行とは、阿弥陀仏のお力によって説法していくこと。その説法によって得られる幸せをここで教えられている。

 そうであるから、阿弥陀仏の「すべての人を浄土へ往生させたい」という願によって造られた船に乗せられ、目の前にやってくる一つ一つの出来事がすべて浄土へ往生するためのご縁となって、浄土へ浄土へと流される身となったならば、阿弥陀仏から頂いた真実を見抜く目によって、現実を受け入れ、心も穏やかとなり、自分の目の前にやってくる様々な苦しみさえも、自分の心を成長させる喜びへと転じてしまう身となった。説法を通して、自分の中にある愚かさも正され、弥陀の浄土に速やかに往生できるので、浄土にて大慈悲の心が起こり、それによって、他人の苦しみを抜いていくことを、自らの喜びとなる菩薩へと生まれ変わるのである。このことをよく知りなさい。

(真宗聖典p307)
『安楽集』(往生要集上)に云く、「十念相続とは、是れ聖者の一つの数の名ならく耳。即ち能く念を積み、思を凝らして他事を縁ぜざれば、業道をして成弁せしむれば便ち罷みぬ。亦、労しく之が頭数を記せざれ。又云く、若し久行の人の念は、多く此れに依るべし。若し始行の人の念は、数を記するも亦好し。此れ亦、聖教に依るなり、と。{以上}

 道綽禅師の書かれた「安楽集」には、次のように教えられています。「十念相続」(一念で真実をさとるまで、念仏を続けていく事)とは、これ十念の十とは、単なる数字の十という意味の十回の念仏の事ではない。すなわち、善知識の教えをよく聴聞し、その教えを正しく理解して、他人事に心を奪われる事なく続けることによって、阿弥陀仏のお力によって金剛の信心を頂いたならば、その信心の働きによって、自然と人々の苦しみを抜いていくために活動せずにはおれないので、自ら心を励まし、仏法を求めていかなくても、仏道から外れてしまうことは、もうなくなる。だから、何回聴聞したかということは、問題ではない。また、久しく聴聞している人は、今まで何回聴聞したか、ということは気にすることなく、これからも続けて聴聞して下さい。一方で、聴聞し始めた人は、何回聴聞したか、ということを問題にして、それを励みにすることも、また良いことである。これは、聖教に書いてあることである。

(真宗聖典p307)
斯れ即ち、真実の行を顕す明証なり。誠に知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。

 今まで書いてきたことは、浄土へ往生するための真実の行を明らかにした様々な根拠である。ハッキリと知らされました。阿弥陀仏が、すべての人を救うために建てられた本願は、自分の力では、心を浄らかにすることが出来ないものでも、阿弥陀仏のお力によって浄らかにして下さり、浄土へ往生させるこの世で二つとない素晴らしい教えであり、それは、一つの教えの中に、すべての徳がとけあい、一つとなっている。だから、その徳を受けることによって、煩悩から離れ、浄土へと往生することが出来るのである。

(真宗聖典p308)
他力と言ふは、如来の本願力なり。『論』に曰く、「本願力と言ふは、大菩薩、法身の中に於いて、常に三昧に在して、種々の身、種々の神通、種々の説法を現じたまふことを示す。皆、本願力より起るを以てなり。譬えば阿修羅の琴の鼓するもの無しと雖も、音曲自然なるが如し。是を教化地の第五の功徳相と名づく。{乃至}菩薩は四種の門に入りて、自利の行成就したまへりと、知るべし、と。成就とは、云く、自利満足せるなり。応知とは、謂く、自利に由るが故に即ち能く利他す。これ自利に能はずして、能く利他するには非ざるなりと知るべし。菩薩は第五門に出でて、回向利益他の行、成就したまへりと、知るべし、と。成就とは、云く、回向の因を以て教化地の果を証す。もしは因、もしは果、一事として利他に能はざること有ること無きなり。応知とは、謂く、利他に由るが故に即ち能く自利す、これ利他に能はずして、能く自利するには非ざるなりと知るべし。
菩薩は是の如き五門の行を修して、自利利他して、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得たまへるが故に、といへり。仏の所得の法を、名づけて阿耨多羅三藐三菩提とす。この菩提を得たまへるを以ての故に、名づけて仏とす。今、速得阿耨多羅三藐三菩提、といへるは、これ速やかに仏になることを得たまへるなり。〈阿〉をば無に名づく、〈耨多羅〉をば上に名づく、〈三藐〉をば正に名づく、〈三〉をば遍に名づく〈菩提〉をば道に名づく。統ねて之を訳すれば、名づけて無上正遍道と為す。無上とは、言ふこころは、この道、理を窮め、性を尽すこと、更に過ぎたる者なし。何を以てか、之を言うとならば、正を以ての故に。正は聖智なり。法相の如く知るが故に、称して正智と為す。法性は相なき故に聖智は無知なり。遍に二種あり。一つには聖心、遍く一切の法を知ろしめす。二つには法身、遍く法界に満てり。もしは身、もしは心、遍せざること無きなり。道とは無碍道なり。『経』(華厳経)に言はく、〈十方の無碍人、一道より生死を出づ〉と。〈一道〉は、一無碍道なり。無碍とは、云く、生死即ちこれ涅槃なり、と知るなり。是の如き等の入不二の法門は無碍の相なり。
問うて云く、何の因縁ありてか〈速得成就阿耨多羅三藐三菩提〉と言えるやと。
答へて云く、『論』(浄土論)に〈五門の行を修して以て、自利利他成就したまへるが故に〉と言えり。然るに覈に其の本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁と為るなり。他利と利他と、談ずるに左右あり。もし仏よりして言わば、宜しく利他と言うべし。衆生よりして言わば、宜しく他利と言うべし。今まさに仏力を談ぜんとす、この故に利他を以て、これを言う。まさに知るべし、この意なり。
凡そ是れ彼の浄土に生ずると、及び彼の菩薩・人・天の起すところの諸行は、皆、阿弥陀如来の本願力によるが故に。何を以て之を言ふとならば、若し仏力に非ずは、四十八願即ち是れ徒設ならん。今的に三願を取りて、用いて義の意を証せん。

願(第十八願)に言はく、〈設ひ我、仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して我が国に生ぜんと欲うて、乃至十念せん。もし生れずは正覚を取らじと。唯五逆と誹謗正法とをば除く〉と。仏願力によるが故に、十念念仏して即ち往生を得。往生を得るが故に、即ち三界輪転の事を勉る。輪転なきが故に、この故に速やかなることを得る一つの証なり。

願(第十一願)に言まはく、〈説ひ我、仏を得たらんに、国の中の人・天、定聚に住し、必ず滅度に至らずは、正覚を取らじ〉と。仏願力によるが故に正定聚に住せん。正定聚に住せるが故に必ず滅度に至らん。諸々の回伏の難なし、この故に速やかなることを得る二つの証なり。

願(第二十二願)に言はく、〈設ひ我、仏を得たらんに、他方仏土の諸々の菩薩衆、わが国に来生して、究竟して必ず一生補処に至らしめん。その本願の自在の所化、衆生のための故に、弘誓の鎧を被て徳本を積累し、一切を度脱して諸仏の国に遊び、菩薩の行を修して十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。若ししからずは正覚を取らじ〉と。仏願力によるが故に、常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。常倫に超出し、諸地の行現前するを以ての故に、この故に速やかなることを得る三つの証なり。斯を以て他力を推するに増上縁と為すこと然らざることを得んや。

当に復、例を引きて自力・他力の相を示すべし。人、三塗を畏るるが故に禁戒を受持す。禁戒を受持するが故に能く禅定を修す。禅定を修すを以ての故に神通を修習す。神通を以ての故に能く四天下に遊ぶが如し。是の如き等を名づけて自力とす。又、劣夫の驢に跨って上らざれども、転輪王の行に従へば、便ち虚空に乗じて四天下に遊ぶに障碍する所なきが如し。是の如き等を名づけて他力とす。愚かなるかな、後の学者、他力の乗ずべきを聞きて、当に信心を生ずべし。自ら局分(局の字、せばし、ちかし、かぎる)することなかれ、と。{以上}

 「他力」と言うのは、阿弥陀仏がすべての人を浄土へ往生させたい、という願いによって起きた力である。
この事について、曇鸞大師の書かれた浄土論註には、次のように教えられています。「本願力」というのは、浄土へ往生し、阿弥陀仏を見る事が出来るようになった菩薩が、弥陀の浄土を心に念じ、弥陀三昧に入られることによって、相手に合わせて自分の接し方を変え、五神通を自由に使い、自由自在に説法することを言います。これ皆、本願力によって起きる力である。この事を譬えるなら、阿修羅の持っている琴は、奏でる人がいなくても自然と音が鳴り、自由自在に曲が流れる。それと同じように、阿弥陀仏の本願力によって説法する人は、まるで歌を歌うようになめらかに話をする事ができ、どんな話をするか考えなくても、自然と相手に合わせて教えが噴き上がってくる。これを、五念門の五番目の功徳である人を浄土まで導く力、と言うのです。
「菩薩は五念門の最初の四つを実践することによって、まず自利の行を成就される。よく知りなさい」この「成就」とは、何が成就するのかと言えば、自利が満足し、自分の苦しみが取り除かれ、心が満足したことを言われます。次に「よく知りなさい」と言われるのはどういうことかと言えば、まず自分の苦しみが取り除かれたからこそ、相手の苦しみに心が向き、苦しみを取り除いてあげたいという気持ちになるのです。だから、「自分の苦しみを取り除くことが出来なければ、相手の苦しみを取り除いてあげたいと言われたとしても、そのような気持ちにはとてもなれない、という事をよく知りなさい」という事です。
「菩薩は五念門の五番目の廻向門に出て、衆生に功徳を施して、利益を与えることが成就する。このことをよく知りなさい」この「成就」とは、どういう意味かと言いますと、説法によって阿弥陀仏から功徳を頂き、それを施して人々の苦しみを取り除いていくので、人々を教え導き、浄土まで進ませることができる。阿弥陀仏のお力によって、人々の苦しみを抜いていくので、どんな人も助ける事が出来るのである。「よく知りなさい」とは、どういう意味なのかと言えば、人々の苦しみを取り除くことによって、自らの心を浄化する力が、どんどんと強くなる。これは、人々の苦しみを取り除いてあげたいと思う気持ちが、自らの心を浄らかにしていくのであって、このような気持ちが起きなかったら、自らの信仰も止まってしまう、という事を良く知りなさい、という意味である。
「菩薩は、このように五念門の教えを実践して自利利他をし、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得ることができる」仏のさとりを開くことによって得られる法を「阿耨多羅三藐三菩提」と言い、この菩提を身に付けた人を仏と言うのです。今、「速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得る」とは、早く仏になれる道である、ということです。この阿耨多羅三藐三菩提を漢訳すると、「阿」とは無という意味であり、「耨多羅」は上という意味。「三藐」は正であり、「三」は遍、そして、「菩提」は道という意味である。ですから、これらを合わせると「無上正遍道」となります。この「無上」というのは、次に挙げる道理を完全に身につけ、一人一人の心に合わせて教え導くことができること、この人以上にはいないので、これを無上と言います。
では、どのような道理なのかと言えば、次の「正」という字であらわされている道理です。この「正」とは、どんな意味かと言えば、正とは聖智のことである。この聖智とは、どんな智慧かと言えば、物事の本質を見抜き、ありのままに見ることが出来る力です。間違いは間違いだと見せて、無常は無常だと知らせる力。このような力を聖智と言います。この物事をありのままに見せる元となる法性というのは、どんな言葉をもってしても表す事の出来ない形のないものであるから、聖智とは、私達の想像の出来ないものである。次に「遍」とは二つの意味がある。一つは、聖智を身につけると、その人の心にこの世に起きる全ての出来事の本質が見える様になる。もう一つは法性というのは、この世界すべてを照らす光であり、どこへ行っても知ることができる。最後に「道」とは、無礙道(どんな穢れや苦しみに満ちた場所にいたとしても、それによって自らの心が穢れ、また三悪道へと戻ってしまう事のない世界)である。この無礙道について、華厳経の中に次のように説明されている。「大宇宙の仏様方は、この聖智を得たことにより、三悪道を離れる事が出来た」ここで無礙とは、肉体は、この迷いの世界にいるままで、心はもう迷いから離れ、煩悩が無くなった静かな境地になれる事を言います。

※入不二の法門…「煩悩即菩提生死即涅槃」という諸法不二をさとる法門。相対的な対立を全て超越した絶対の境地を示す教え。

 このような入不二の法門(善とか悪とか、浄らかとか、穢れているとか、差別を超えた形にとらわれる事のない世界)に入ることが、無礙道に入った世界である。お尋ねします。「どういう因縁があって、『速やかに仏のさとりが開ける』というのでしょうか?」お答えします。「浄土論に五念門の行を実践して、自利利他が成就したからである」しかるに、「なぜ五念門を実践していく事によって、速やかに仏のさとりを開くことができるのか」とその本を尋ねたならば、阿弥陀仏の目に見えない外から働きかけられるお力があるからである。他から利してもらうのと、他を利するとは、対照的な言葉である。仏様の立場で言うのなら、利他であるし、助けて頂く衆生の立場で言ったのなら、他から利してもらうと言うべきである。今、ここでは仏力を問題にしているので、ここで利他と言ったら、阿弥陀仏が私たちを助けて下さる働きを言われるのである。だから、五念門で速やかに仏のさとりを開くことができるのは、まさに阿弥陀仏の利他の働きがあるからである。この阿弥陀仏の本願力によって、私たちは浄土に生まれる事が出来るのであり、浄土に生まれた菩薩が人々の苦しみを取り除くために行動するのであり、また、まだ浄土に生まれていない私たちが浄土に向かって進んでいく事ができるのである。何故、このようなことを言うのかと言えば、もし、阿弥陀仏のお力が無いとするならば、阿弥陀仏がすべての人を浄土へ往生させたいと建てられた阿弥陀仏の四十八願は、意味のないものになってしまう。今、このことを明らかにするために、四十八願の中で三つの願を取り出して、この願を通して、なぜ阿弥陀仏のお力によって速やかに仏のさとりを開けるのか、明らかにしたいと思います。
まず、十八願には「私が仏になりましたならば、すべての人に対して次の様なお約束をします。善知識を通して、私の浄らかなまことの心に触れ、心から素晴らしいと敬う心が起き、この私のいる世界に自分も行きたいという気持ちになったならば、ひたすら聴聞を続けていきなさい。そのように聴聞を続けた人を若し浄土に往生させなかったならば、私は仏になりません。ただし、すべての人と言っても、恩を知らず、都合が悪くなると人間関係を断ち切っていく五逆罪の者や、あまりにも自分の我が正しいという気持ちが強く、自分が間違っていても反省できない謗法の者は、仏法を続けて聞いていく事が出来ないので除きますよ。」阿弥陀仏がこの様に誓われているのだから、阿弥陀仏の本願力によって、善知識からひたすら聴聞を続けていくことによって、浄土に往生する事が出来る。往生したならば、阿弥陀仏の光明によって自分の客観的な姿が知らされ、それによって都合の悪いことも認められる様になるので、もう自分の目が曇って三悪道へと堕ちてしまうことがない。三悪道に堕ちることがないので、速やかに仏のさとりを開くことができるのである。これが一つ目の証である。
次に、阿弥陀仏の十一願には「私が仏になりましたならば、次の事をお約束します。私の浄土に往生した人が、真理を見ることが出来る様になって正定聚の身になり、自己の間違った考えを正しい考えへと正すことによって煩悩を完全に滅した世界へ出ることができないのならば、私は仏のさとりは開きません。」と誓われている。この本願力によって浄土へ往生した人は皆、正定聚になることができ、正定聚になることができるので、煩悩の滅した世界にも出る事ができるのです。だから、また迷いの世界へ輪廻することはない。この故に速やかに仏のさとりを開く事ができる二つ目の証である。

※正定聚とは、真実を見る目を頂き自分を客観的に見られるようになった人を言います。自己を客観視できるので自分の間違いを正す事ができ、それによって、煩悩を滅した世界へと出る事ができるのです。

※回伏の難…迷いの世界を輪廻する難のこと。また、回復と同じで、迷いの世界へ後戻りする難のこと。

 最後に三つ目の二十二願には、次のように誓われている。「私が仏になりましたならば、次の事をお約束します。善知識によって導かれて育てて頂き、それによって私が浄土に往生する事ができたならば、自分の苦しみを解決して早く楽になりたいという心しかなかった人を、相手の苦しみを抜くためならば自分が苦しむことも厭わない、そんな菩薩へと変えていきましょう。衆生の苦しみを取り除くために動いた時に、私はあなたのために忍ぶ気持ちを持って徳を積み、すべての苦しみを抜き、諸仏の国に遊んで菩薩の行を実践し、大宇宙の諸仏方を供養し、人々を救い仏のさとりまで導こうとする気持ちを除いてあげよう(あなたのためにやっているのだ、という気持ちがあると、相手が自分の努力を認めてくれないと腹を立てることになるし、腹を立てなくても相手は負担に感じる。阿弥陀仏はその心を除いてくれることによって、自分の努力に執着する事なく、相手に対して施しを続けられる身にして下されると誓われているのである。)そして、自分の努力にとらわれることなく六度万行を実践し、相手の苦しみを取り除く事が出来る身にしてみせましょう。もしできなければ、私は仏になりません」。阿弥陀仏の本願力によって、自分の行いにとらわれることなく六度万行を実践し、人々の苦しみを取り除いていく事が出来る。そのようにできるので、自分に執着する心から離れて、速やかに仏のさとりを開くことができる。これが三つ目の証である。
この三つの願を通して推測するに、どうして他力によって、速やかに仏のさとりを開くということが、そうではないと否定できるであろうか。それでも納得できない人がいるのならば、また、一つの例を挙げて自力と他力のすがたを示したいと思います。自力とは、三悪道に堕ちるという悪果を受けたくないから、悪果を恐れる気持ちから、悪をやめようとして生活習慣を正し、仏教の教えに従った習慣を身に付けようとする。そして、生活習慣を正し煩悩から離れることによって、物事を冷静に見ることが出来る穏やかな心の状態になろうと努力していく。そして、煩悩から離れることによって神通力を身につけ、それによって苦しんでいる人を自由自在に助けていく。この様にしていくことを「自力」と言います。それに対し「他力」とは、一人の劣夫(凡夫)がロバにまたがって大空を自由自在に駆け走ろうとしたのですが、思うようにできませんでした。そこに転輪王がやってきて、私の後についてきなさいと言われ、その後をついていくと、何の妨げもなく自由自在に駆け走ることができました。これは何をたとえているのかと言えば、どこに向かって進んでいったらいいか、分からぬ愚かな者であっても、善知識の教えられることに従って進んでいく事で、道を逸れて、また三悪道に堕ちることなく、浄土まで駆け上がっていくことができる。これが他力である。愚かなるかな、後の世に生まれた仏教の学者は、本当の仏教を説かれる善知識を探しなさい。自分の愚かな智慧を信じて、仏教を求めてはなりませんよ。

(真宗聖典p311l1)
元照律師の云く(観経義疏)、或は此の方にして惑を破し真を証すれば、則ち自力を運ぶが故に、大小の諸経に談ず。或は他方に往きて法を聞き道を悟るは、須らく他力を憑むべきが故に、往生浄土を説く。彼此異なりと雖も、方便して自心を悟らしむるに非ざるはなし、と。{以上}

 元照律師は、次のように教えられています。自力によって悟りを開くという事は、自分の力で教えを理解し、自分の中にある迷いを破って正しい理解へと変えていく。そのために、大小の経典が必要になる。それに対し、他力は、自分の力で教えを理解できなくても、善知識の教えに従い進んでいく事によって、浄土に往生する事ができる。これ、自力と他力と違うけれど、共に自分の心が知らされていく道には変わりない。

※自分の心が知らされるというのは、私たちにとって最も知りたい事であると同時に、最も認めたくない事でもある。そのため、自分の力でこの道を求めようとすると、どうしても自分の都合の良いように物事を見てしまい、気付かない間に、道からズレて、迷いの世界へと戻ってしまう。そのため、自力で進んでいく道は、自分の心との戦いであり、また、頑張れば頑張るほど、「自分は頑張っているのだ」という所にとらわれてしまい、自分の間違いを認められなくなっていく。つまり、自力の道は、頑張っても頑張らなくても進めない困難な道なのである。それに対し、他力は、善知識が私たちの心を導き、道から逸れないようにしてくれるので、自らの力で進む事の出来ない者であっても、浄土まで進んでいく事が出来るのである。

(真宗聖典p311l4)
「一乗海」と言うは、「一乗」は大乗なり。大乗は仏乗なり。一乗を得るは阿耨多羅三藐三菩提を得るなり。阿耨菩提は即ち是れ涅槃界なり。涅槃界は即ち是れ究竟法身なり。究竟法身を得るは即ち一乗を究竟するなり。異の如来ましまさず。異の法身ましまさず。如来は即ち法身なり。一乗を究竟するは即ち是れ無辺不断なり。大乗は二乗・三乗あることなし。二乗・三乗は一乗に入らしめんとなり。一乗は即ち第一義乗なり。唯是れ誓願一仏乗なり。

 「一乗海」というのはどういう意味かと言いますと、まず「一乗」というのは大乗の事である。ここで大乗というのはどういう意味なのかと言いますと、自分の苦しみを解決できれば、それで満足だという小さな心ではなくて、他人の苦しみを自分の苦しみのように感じ、他人の幸せを自分の幸せのように感じ、自分の苦しみを解決していくだけでなく、他人の苦しみも解決するために努力を続けていく心、それが大乗精神である。もちろん、他人の苦しみを受け取れば、自分も苦しむし、他人の穢れを受け取れば、自分も穢れる。そして、せっかく苦労して、功徳を積んで心を穏やかにしても、その功徳を相手に施し、苦しみを抜いてあげたら、自分の功徳がなくなり、また、努力を積んで功、徳を積んでいかなければならない。自分の苦しみを解決することだけ考えている人には、とてもそんな気持ちには、なれないと思うのも仕方ないと思う。でも、このような大乗の心になった人がいなければ、自ら悪をやめることができず、功徳を積むことのできない人は、どう頑張っても、助からないことになってしまう。大乗の心を起こした人が、自分の為でなく、他人を救うために功徳を積み、それを与えて下さるからこそ、苦しんでいる人は助かることが出来るのです。大乗の心を起こすとは、自分がこのように苦しみが抜ける所まで、自分の心を支えて下さった方々があるからであり、その方々がおられなかったら、今の私の幸せはなかった。だからこそ、このご恩に報いたい。私もまた、苦しんでいる人のために苦労していきたい。その心が大乗の心なのです。この大乗の心こそ、仏の心であり、仏を目指している人の心なのです。この一乗を得た人こそ、仏のさとりまで到達できる人なのです。この仏のさとりとは、涅槃界(本当の自分を知り、迷いの心によってつくられた虚像である我にとらわれることがなくなった世界)である。涅槃界とは、自分を求めて我をつくり、肉体を持とうとする心から離れた世界であり、生死の苦しみから離れた世界である。この一乗という真理と違う教えを体得して仏になる者もおらず、我にとらわれて肉体に縛られる者もいない。我にとらわれる心から、完全に離れた者が仏である。この一乗のさとり、仏のさとりを求める者は、すべての人の苦しみが取り除かれる所まで、決して努力をやめない金剛の信心になった人である。この大乗は利他の心を起こした人の心の世界であるから、まだ、自利の心にとらわれている声聞や縁覚、また、菩薩には分からない世界であり、お釈迦様の説かれたすべての教えは、この大乗の世界へ人々を導くための方便の教えなのである。この一乗とは、本当の自分を知り、我にとらわれる心が全くなくなった世界へと通じる道であり、その世界へ、すべての人を導くことが阿弥陀仏の願いでもあるのです。

(真宗聖典p311)
『涅槃経』(聖行品)に言はく、「善男子、実諦は名づけて大乗といふ。大乗にあらざるは実諦と名づけず。善男子、実諦は是れ仏の所説なり。魔の所説にあらず。もし是れ魔説は仏説にあらざれば、実諦と名づけず。善男子、実諦は一道清浄にして二つ有ること無し」と。{以上}

 涅槃経の中に、次のように教えられています。仏教を求める善き人たちよ。物事をありのままに見える智慧を体得して、初めて本当の意味で大乗に入った、と言うのです。だから、まだ本当の自分が分からず自他にとらわれる心のある人は、その迷いによって目が曇り物事をありのままに見る事はできない。仏教を求める善き人たちよ。仏の説かれる説法は、曇りなき目によって、物事をありのままに見て、真実を説かれることによって、聞いている人の迷いを破っていくのである。だから、仏の教えを聞いて、心が穢れ三悪道へ引きずり込まれる事はない。もし心が穢れてしまうのならば、その説かれている教えは真実を説いていないのである。仏法を求める善き人たちよ。真実は迷いを破り心を清らかにしていくたった一つの道であり、これ以外に心を清らかにしていく方法はありません。

(真宗聖典p311)
又言く、(徳王品)「いかんが菩薩、一実に信順する。菩薩は一切衆生をして皆一道に帰せしむを了知するなり。一道とは謂く大乗なり。諸仏菩薩は、衆生の為の故に、これを分ちて三つと為す。この故に菩薩、不逆に信順す」と。{以上}

 真実が知らされた菩薩がその真実を信じ従っていく事は、どういうことなのか?それは、知らされた真実によって、本当の自分の姿がハッキリと知らされ、今まで自他を分けてきた迷いの心が打ち破られ、自他の区別が無くなり、すべては自分の心を映し出す鏡であったと知らされた人は、目に映る人々の苦しみは、そのまま自分の苦しみのように感じ、その苦しみを抜き、私と同じ世界に出てもらいたい、と思うようになるのです。ですから、真実が知らされた菩薩が進んでいく道は、心からすべての人を救ってあげたい、という気持ちになる「大乗」の道である。諸仏菩薩は人々をこの一道の世界に導くために、私たちの心に合わせて、声聞・縁覚・菩薩の教えを説かれる。このような方便を通って初めて、一道に入ることが出来るので、菩薩はその教えに逆らうことなく、人々を諸仏の示された方便に従って導いていかれるのです。

※仏は私たちを導くために、私たちの心を見られ、一人一人の心に合わせ、法を説かれる。その法とは、私たちの信仰に応じて、声聞の教え、縁覚の教え、菩薩の教えに分かれる。では、それぞれ、どんな事を教えられているのかと言えば、

○声聞の教え…目の前の事象にとらわれ、苦しみの本質が自分の心にあると、まだ分からない段階。因果の道理を通して、その人の抱える問題を解決していきながら、「どんなに環境が変わっても心の苦しみは何も変わらない」と気付かせることが目的。

○縁覚の教え…苦しみが自分の心にあると気付いた人が、更に自分の心を見つめて、苦しみの原因を突き止めていく段階。私たちは本当の自分を知らないから、自分の中に仮の自分(我)をつくり、それに執着してしまう。その執着からすべての苦しみが生み出されていく。

○菩薩の教え…苦しみの原因が本当の自分を知らない所から来ると知らされた人が、本当の自分を知るために相手に向かっていく。相手を通して自分の心を知り、相手の苦しみを解決していくことを通して、自分の苦しみも解決していく段階。

(真宗聖典p312)
又の言はく(涅槃経・師子吼品)、「善男子、畢竟に二種あり。一つには荘厳畢竟、二つには究竟畢竟なり。一つには世間畢竟、二つには出世畢竟なり。荘厳畢竟は六波羅蜜なり。究竟畢竟は一切衆生得るところの一乗なり。一乗は名づけて仏性とす。この義を以ての故に、われ一切衆生悉有仏性と説くなり。一切衆生悉く一乗あり。無明覆へるを以ての故に、見ることを得ること能はず」と。{以上}

 仏教を求める善き人たちよ。私たちが求めるさとりに二種類ある。一つには荘厳畢竟と言われる自分の苦しみを取り除いてさとりを得る方法。もう一つは、究竟畢竟と言われる、人々の苦しみを自分の苦しみのように感じ、その苦しみを取り除くために自らの功徳を相手に渡し続け、すべての人々の苦しみを取り除くことを自らの願いとするさとりがある。これを別の言葉でいうのなら、一つは世間畢竟と言われる、迷いの人たちが求めているさとりと、もう一つは出世間畢竟と言われる、迷いの世界から離れた人が求める究極のさとりである。「荘厳畢竟」とは、六度万行を実践し、般若波羅蜜を体得し、苦しみのない世界へ出るためのさとりであり、「究竟畢竟」とは、私たちの心の外から、私たちへ働きかけられている力であり、その力によって流されたならば、どんな人も仏になることのできるものである。だから、一乗を仏になる働きと言うのである。このことから、私はすべての人に仏になるための力がかかっている、と話したのである。だから、どんな人でも一乗の世界に出る可能性を秘めているのである。しかし、私たちは、その力を受け取らないように心に殻をつくっているために、その力を受け取ることができないのである。

(真宗聖典p312l7)
又言はく(同)、「いかんが一とする、一切衆生悉く一乗なるが故に。いかんが非一なる、三乗を説くが故に。いかんが非一・非非一なる、無数の法なるが故なり」と。{以上}

 私はこのように聞いて、仏様の教えとは一乗を説くためであったのか、それとも、そうでないのか。はたまた、仏教に教えられている沢山の教えは一体何であるのか。この事が分からなくなりました。仏様が一番説きたかったのが一乗の教えならば、それだけを説いていかれたら良かったのではないでしょうか。それについてお答えします。確かに仏様が一番説きたかったのは、一乗の教えです。しかし、私たちの心は迷いが深く一乗の教えを信じることができないので、仏様はこの一乗の教えに導くために、私たちの心に応じて、声聞の教え、縁覚の教え、菩薩の教えを説かれました。これは一乗の教えではないので、非一と言われます。この非一と言われる声聞・縁覚・菩薩の教えという方便によって、仏様は、すべての人を一乗という真実へと導いていかれるのです。また、仏様は、この声聞・縁覚・菩薩という真実へと通じる方便の教えへと導くために、一乗の教えでもない、また、声聞・縁覚・菩薩の教えでもない数えきれない程の沢山の教えを説かれるのです。

(真宗聖典p312)
『華厳経』(明難品・晋訳)にのたまはく、「文殊の法は常にしかなり。法王は唯一法なり。一切の無碍人は一道より生死を出づ。一切諸仏の身、唯是れ一法身なり。一心一智慧なり。力・無畏も亦しかなり」と。{以上}

 華厳経の中に次のように教えられています。文殊菩薩(お釈迦様の智慧をあらわす菩薩)の教えは、常に相手に合わせて教えを説かれる。しかし、仏になるための教えは、ただ一つの法である。すべての仏様方は、この一乗の教えを通して、生死の苦しみから離れることが出来たのです。だから、すべての仏様方は、この一乗へとすべての人を導くために存在しているのであり、様々な方便の力を持っておられるのです。

 

(真宗聖典p312)
しかれば、これ等の覚悟は皆以て安養浄刹の大利、仏願難思の至徳なり。

 しかれば、この様に一乗の世界に出る事は、阿弥陀仏のお力によって頂いた大変素晴らしい宝であり、阿弥陀仏がこの世界まで何としても導いてあげたいと常に念じていたために得られた幸せなのである。

(真宗聖典p312r3)
「海」と言ふは、久遠より已来、凡聖所修の雑修・雑善の川水を転じ、逆謗闡提・恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実・恒沙万徳の大宝海水と成る。これを海の如しと喩ふるなり。真に知んぬ、『経』に説きて「煩悩の氷解けて功徳の水と成る」と言ふが如し。{以上}願海とは、二乗雑善の中・下の屍骸を宿さず。いかに況や人天の虚仮・邪偽の善業、雑毒雑心の屍骸を宿さんや。

 次に、一乗海の海とはどういう意味なのかと言いますと、この「海」というのは、果てしない昔から今に至るまで続けられてきた、阿弥陀仏が私たちの心にある不純の考えを取り除いていく作業であり、その御心にゆり動かされた善知識が、自らの心に阿弥陀仏の温かい功徳を溜めることによって、人々の冷たく凍り付いた逆謗闡提の心を溶かし、愚かなために世界を怖れ自分の殻に閉じ籠って出ようとしない私たちの心の闇に光を差し込み、心の壁を取り除き、人々を一乗の世界へ導き、様々な徳を身につけさせて下さる。このように、海がすべての水を浄化してくれるように、一乗海に出た人も、また人々の苦しみを取り除き、心を浄化してくれるので、海にたとえられるのである。
この事を通して、ハッキリ知らされた事がある。それは、源信僧都が往生要集の中で、「煩悩の氷が溶けて功徳の水と成る」と、言われているのは、一乗海に出た人が教えを説くことによって、負の感情しか出てこない程、氷のように冷え切った人々の心を溶かし、周りの人たちも穏やかになる程の豊かな温かい心に変えてくれる事を言われているのである、という事が分かりました。
また「願海(阿弥陀仏がすべての人を浄土へ往生させてやりたいと願いを起こされ、それを果たすために出来た働き。この願海の働きによって、人々の心を浄化させ、浄土へと導いていく)」の働きによって、私たちの心にある自己に執着する気持ちを取り除いて下される。だから、願海の働きによって完全に浄化された人の心には、声聞や縁覚の人が持っている「私がやった」という自己にとらわれる心は、全くないのである。ましてや、迷っている人がやるような、因果の道理に外れた幸せになるどころか余計に苦しむような偽の善など、ある筈がないのである。

(真宗聖典p313)
故に『大本』(大経・下)に言はく、「声聞、或は菩薩、よく聖心を究むることなし。譬えば生れてより盲ひたるものの、行きて人を開導せんと欲はんが如し。如来の智慧海は深広にして涯底なし。二乗の測るところに非ず。唯仏のみ独り明らかに了りたまへり」と。{以上}

 したがって、大経には次のような事も教えられています。
まだ、一乗を体得していない声聞や菩薩は、仏の心の世界を理解することは出来ない。それは譬えるならば、生まれた時から目の見えない人が、目が見えてちゃんと人を案内している人を見て、自分もそのようになりたいと思うようなもので、どんなになりたいと思っても、目が見えなければ人を案内する事が出来ないように、真理をまだ体得していない人が仏のマネをして苦しみを取り除こうとしても、出来るものではない。仏の見ておられる悟りの世界は、とても深くて広く想像をはるかに超えている。だから、まだ一乗を体得していない声聞や菩薩が、どんなに理解しようとしても出来るものではない。ただ一乗を体得した仏のみが、明らかに知ることができるのである。

(真宗聖典p313l8)
『浄土論』に云く、「〈何者か荘厳不虚作住持功徳成就、偈に、《仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐるものなし。能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ》と云えるが故に〉と云へり。〈不虚作住持功徳成就〉とは、蓋しこれ阿弥陀如来の本願力なり。今当に略して虚作の相の住持に能はざるを示して、以て彼の不虚作住持の義を顕す。{乃至}いふところの不虚作住持は、もと法蔵菩薩の四十八願と、今日阿弥陀如来の自在神力とに依る。願以て力を成じ、力以て願に就く。願、徒然ならず、力、虚設ならず。力願あひ符うて畢竟じて差はず。故に成就といふ」と。

 「浄土論」の中に次のように教えられています。
阿弥陀仏の浄土の功徳に、荘厳不虚作住持功徳成就という功徳があるが、これはどういう功徳でしょうか?
これは天親菩薩の書かれた願生偈の中に、弥陀の本願をはねつけている心の殻が破られ、阿弥陀仏の本願力によって浄土へと流されているとハッキリ知らされた人、それはどんな人かと言うと、今まで間違いないと信じてきた自分の智慧が、心から間違っていたと知らされ、自分は愚かであった。これからは正しい智恵を持っておられる善知識に対して、良い顔をするのではなく、正直にぶつかっていこう。心で納得していない事を無理矢理やるのではなく、納得していない事は納得していないと正直に言って、納得するまで聞こう。また、恥ずかしい所でも隠すのではなく、正直に言って、自分の心に嘘をつくのではなく正直に生きていきたい。今までは人の目を気にして、自分の心を偽り、良い人間を演じては、見えない所で怠けたり、怒ったり、他人のせいにして苦しんできた。もう苦しみたくない。他人の目を気にするのではなく、自分に正直に生きていきたい。それが一番心が楽であるし、心は明るくなる。また、その上で自分にやってきたことは、仕方がないと思って受け入れていこう。私にやってくる事は、すべて自分にとって意味のある事であり、自分の心を成長させてくれるご縁なんだ。苦しいかもしれないけれど、その意味が分かるまで耐えていこうと、自分にやってくるすべてのご縁をそのまま受け入れていくと、不思議とどこかに向かって流されていく事を感じる。ハッキリとは分からないけど、浄土へ浄土へと流されていくのを感じる。この様な身になった人が、阿弥陀仏の本願力が知らされた人であり、そういう人は阿弥陀仏の本願力によって流されているので、怠け心が起きて自分の心を誤魔化そうとしても、また怒りの心が起きて苦しみを他人のせいにしようとしても、自分の間違いが知らされ、やっぱり問題を受け止めていくしかないと知らされるので、三悪道に再び迷う事なく、浄土まで往く事ができるのです。
次に「不虚作住持功徳成就」というのは、阿弥陀仏の「すべての人を浄土へ連れて行きたい」という本願によって生み出された力の事です。今から、この事について示し、これは単なる言葉だけの事ではなくて、実際にその通りになる事が出来る事を明らかにしたいと思います。この「不虚作住持」というのは、その元は阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩であった時に四十八の願を建てられ、「すべての人を浄土に往生させたい」という願いを建てられた。そして、修行をし、功徳を積まれ、私たちを浄土へ往生させるための力を持たれた阿弥陀如来という仏になられたのです。浄土へ往生させたいという願いによって、その願いを果たすための力が生まれ、その力がある事を知らせるために願がついているのである。だから、この願は単なる言葉だけの夢物語のようなものではなく、「せっかく力があっても、誰も知らなくて助からなかった」という事もない。だから、願とその願を果たす力がセットになって、寸分違わない。これを「成就」と言うのです。

(真宗聖典p313)
又云く、「〈海〉とは、言ふこころは、仏の一切種智深広にして涯なし、二乗雑善の中・下の屍骸を宿さず。これを海の如しと喩ふ。この故に、〈天人不動衆清浄智海生〉(願生偈)といへり。〈不動〉とは、言ふこころは、かの天・人、大乗根を成就して傾動すべからざるなり」と。{以上}

 一乗海の「海」というのはどういう意味なのかと言いますと、仏様はすべてのものを曇りなき眼でありのままに見て、そして、それがどのような因縁によって生み出されたか知る事ができる。その智慧は海のように深く広く、際がない。そして、その海のような智恵によって、ちっぽけな自己にとらわれる気持ちを溶かし、無くして下されるのです。これを「海のようである」と譬えられるのです。この故に、どんな苦しみにも耐え死ぬまで人々の苦しみを取り除いていく事を諦めず続けていく菩薩たちの心を支えているものは、自他を分ける迷いの心が破られ、自他を超えた空のさとりである。ここで、「心が動くことがない」と言われているのは、一乗を悟ることによって、本当の自分とは今見えている世界すべてであり、この世界に向けて発信された心は、阿頼耶識の中に薫習され、自分の心の世界を生み出していくということを悟った人が、目の前にいる人々の苦しみが自分の苦しみのように感じられ、その苦しみを取り除かずにはおれない。
その気持ちが決して変わらない事を言われるのです。

 
 
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