教行信証3 p287-298
 
 

教行信証

 

(真宗聖典p287)
問うて曰く、何が故ぞ観を作さしめずして、直ちに専ら名字を称せしむるは、何の意かあるや。
答へて曰く、いまし衆生、障重くして、境は細なり、心は粗なり。識あがり、神飛びて、観成就し難きに由りてなり。是を以て、大聖(釈尊)悲憐して、直ちに勧めて専ら名字を称せしむ。正しく称名易きに由(由の字、行なり、経なり、従なり、用なり)るが故に、相続して即ち生ず、と。

 では、お尋ねします。「なぜ心の中にある雑念を払い、専ら仏を念い浮かべていく事によって、心を静め、穢れをとっていく、という観を勧めず、ただ称名を勧めるのは、どんな理由があるのですか?」
それについてお答えします。「私たち凡夫は、心の穢れが強く、常に心が散り乱れ、静めようとしても、静める事が出来ず、それも観など、出来るものではないからであります。そこで、仏様は、そんな私たちを悲しみ哀れんで、私たちに、ただ称名を勧めて下さった。称名とは、自分の力で心の穢れを取るものでなく、他力によって取って頂くものなので、自力では修行のできない私たちにも実践できるものが称名だから、続けていく事によって、浄土へ生まれる事ができるのです。称名とは、この行を実践していくままが、私たちが経に従い、自己を変えていく働きがあるのです」

(真宗聖典p288)
又云く、現に是れ生死の凡夫、罪障深重にして六道に輪廻し、苦しみ言うべからず。今、善知識に遇ひて、弥陀本願の名号を聞くことを得たり。一心に称念して往生を求願す。願はくは仏の慈悲、本弘誓願を捨てたまはず、弟子を摂受したまうべし、と。

 現在、生死から離れる事が出来ない者は、智慧がないために、何が正しい事か何が間違っている事か分からず、間違ったことを正しい事だと思い込んで、それをやり続け、自分の間違いに気付くことなく、六道を輪廻し続け、苦しみ続けている。今、善知識に会う事が出来て、その方から弥陀の本願力による説法を聞く事が出来た。その善知識の教えを心から信じ、聴聞によって穢れを取って頂き、それによって、往生できることを願い求めなさい。願うことなら、仏様、私に慈悲をかけて頂き、決して見捨てることなく浄土まで守って下さい。

(真宗聖典p288)
問うて曰く、阿弥陀仏を称念し、礼観して、現世にいかなる功徳利益か有る。答へ曰く、若し阿弥陀仏を称すること一声するに、即ち能く八十億劫の生死の重罪を除滅す。礼念以下も亦是の如し。

 では、お尋ねします。「善知識の説法を聞き、それによって念仏し、称名することによって、この世どんな幸せがあるのでしょうか?」
それについてお答えします。「阿弥陀仏をほめたたえるというのは、苦しみが取り除かれ自然と心から吹き上がってくる喜びの心です。だから、当然、この世から幸せが得られます。また、苦しみが取り除かれた喜びから出てくるものが、称名なのです。その取り除いてくださる苦しみは、八十億劫もの間、私を苦しみ続けてきた重い罪であり、その喜びが形となって現れたものが、称名です。」

(真宗聖典P289)
『十往生経』に云く、若し衆生ありて、阿弥陀仏を念じて往生を願ずる者は、彼の仏、即ち二十五菩薩を遣はして、行者を擁護して、もしは行、もしは座、もしは住、もしは臥、もしは昼、もしは夜、一切時・一切処に、悪鬼・悪神をして、その便りを得しめざるなり〉と。

又『観経』に云うが如し。若し阿弥陀仏を称礼念じて、彼の国に往生せんと願ぜば、彼の仏、即ち無数の化仏、無数の化観音・勢至菩薩を遣はして、行者を護念したまふ。復、先の二十五菩薩等と百重千重、行者を囲繞して、行住座臥、一切時処、もしは昼、もしは夜を問はず、常に行者を離れたまはず。今すでに、この勝益まします、憑むべし。願はくは諸の行者、おのおの至心を須ゐて往くことを求めよ。

又『無量寿経』に云うが如し。若しわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せんに下十声に至るまで、若し生れずは正覚を取らじ、と。彼の仏、今現にましまして成仏したまへり。当に知るべし、本誓重願、虚しからず、衆生称念すれば、必ず往生を得。

又『弥陀経』に云うが如し。若し衆生ありて、阿弥陀仏を説くを聞かば、即ち名号を執持すべし。もしは一日、もしは二日、乃至七日、一心に仏を称じて乱れずば、命終らんと欲する時、阿弥陀仏、諸の聖衆と現に其の前にましまさん。此の人、終らん時、心顛倒せず。即ち彼の国に往生することを得ん。仏、舎利弗に告げたまはく、われ是の利を見るが故にこの言を説く。もし衆生ありて、この説を聞かんものは、まさに願を発し、かの国に生ぜんと願ずべし、と。次下に説きて云く、東方の恒河沙等の如き諸仏、南西北方および上下一々の方に恒河沙等の如き諸仏、おのおの本国に於いて、その舌相を出して、遍く三千大千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまはく、汝等衆生、皆この一切諸仏の護念したまふ所の経を信ずべし、と。如何が護念と名づくる。もし衆生ありて、阿弥陀仏を称念せんこと、もしは七日、一日、下至一声、乃至十声、一念等に及ぶまで、必ず往生を得。この事を証誠せるが故に、護念経と名づく、と。

次下の文に云く、もし仏を称して往生するものは、常に六方恒河沙等の諸仏の為に護念せらる。故に護念経と名づく、と。今、既に此の増上の誓願います、憑むべし。諸の仏子等、何ぞ意を励まして去かざらんや、と。[智昇法師の『集諸経礼懺儀』の下巻は善導和尚の『礼讃』なり。これによる。]

又云く、「弘願といふは『大経』の説の如し。一切善悪の凡夫、生ずることを得るは、皆、阿弥陀仏の大願業力に乗(乗の字、駕なり、勝なり、登なり、守なり、覆なり)じて、増上縁とせざるはなし」と。

又云く、「南無といふは、即ちこれ帰命なり、亦これ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、即ちこれその行なり。この義を以ての故に必ず往生を得」と。

亦云く、「摂生増上縁といふは、『無量寿経』の四十八願の中にに説くが如し。仏の言はく、もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、わが願力に乗じて、もし生れずは正覚を取らじ、と。これ即ち、これ往生を願ずる行人、命終らんとするとき、願力摂して往生を得しむ。故に摂生増上縁と名づく、と。

亦云く、「善悪の凡夫をして、回心起行して、悉く往生を得しめんと欲す。此れ亦是れ、証生増上縁なり」と。

 「十往生経」の中に次のように教えられています。「もし、阿弥陀仏を念じて、その力によって心の穢れを取り去り、往生を願う者がいたとしたら、阿弥陀仏はその人に対して、25人もの菩薩を遣わしてその人を守り、その人が何をしていたとしても、また、どんな時であっても、浄土へ向かわせる気持ちをなえさせ堕落の道に連れて行く悪鬼・悪神から守って下される。」
また、「観無量寿経」の中には、「もし阿弥陀仏を称礼念して、弥陀の浄土に往生したいと願う者は、阿弥陀仏は数えきれない程の化仏・化観音・勢至菩薩を遣わして、その人を守って下される。」
また先程の25の菩薩などが百重・千重に行者を取り囲み、どんなことをしていても、また、いつでも、昼夜を問わず常に行者を離れることはない。今、既にこのような素晴らしい利益が存在している。だから、その利益の力をたよりなさい。願うことなら、弥陀のお力によって至心になって求めなさい。
また、「大無量寿経」には、「私が仏になりましたならば、すべての人とお約束します。我が名号をほめたたえる身になり、それを続けていったならば、その人を浄土へ生まれさせてみせましょう。もし、できなければ、私は仏になりません」と法蔵菩薩がお約束なされて、今、現に仏になられている。つまり、このお約束は真実であり、嘘ではない事を良く知りなさい。この弥陀の浄土へ生まれさせる、という本願は真実であり、空虚なものではない。だから、私たちは称念していけば、必ず往生することができる。

※ここで、名号を称するとは、どういうことでしょうか?多くの人は南無阿弥陀仏と口で称える事だと思っていますが、これは五念門の讃嘆門にあたります。讃嘆門とは、「彼の如来の名に依りて、彼の如来の光明智相の如く讃嘆するなり」この彼の如来とは無礙光如来のことです。無礙光とは、煩悩の礙りを取り去り、心を浄化させる力。それをして下される力をもたれた仏なので、無礙光如来と言われます。名号を称するとは、無礙光如来のお名前の通り、心の穢れを取り去って頂き、心を浄化していく事に対して、喜びほめたたえること。また、浄化する働きのある説法をする事を言います。

 また、「阿弥陀経」の中にも、「もし、善知識にお会いして、その人の説法を通して、阿弥陀仏の説法を聞いたならば、常に聴聞の出来る環境に身を置きなさい。もし一日できたなら、一日しなさい。二日できたら二日しなさい。今日が最後だと思って続けていきなさい。心を一つにして、ひたすら聴聞を続けていけば、いよいよ命が終わろうとする時に、阿弥陀仏は諸の仲間を連れて、あなたの前に現れて下さいます。その時、あなたが生に執着し、死を受け入れられず、自分の我にとらわれることがなければ、彼の浄土に往生することができます。」お釈迦様は舎利弗に仰った。「私はこの素晴らしい働きを見ることができたので、今、話したのです。もし、私の話を聞いたなら、まさに浄土に往生したいという願いを起こして、聴聞に励みなさい」
「阿弥陀経」には、その後に次のように教えられています。「ここから東の方にある世界にも、ガンジス河の砂の数ほどの仏様がおられて、いや、それだけでなく、南や西、北、そして、上下など、それぞれの方向にガンジス河の砂の数ほどの仏様がおられて、それぞれの世界で、顔中を口にして真実の言葉を説いておられる。「皆さん、大宇宙の諸仏方が護念している経を信じなさい。」
ここで護念とは、どういうことかと言いますと、もし、私たちが阿弥陀仏を称念し、それを続けていったならば、必ず往生することができる。このことを証明し果たせて下されるので、「護念経」と言うのです。」
次に、阿弥陀経の下文に「もし弥陀を称して往生した者は、常に大宇宙の諸仏方が、その人を護念して下されるので「護念経」と言うのです。」今すでに目には見えないが、弥陀の誓願が存在しているのだから、信じなさい。諸の仏弟子達よ、どうして弥陀の誓願があるのに、心を励まして、穢土から離れようとしないのか。
「弘願」(すべての人を救おうとされている弥陀の本願)とは、「大無量寿経」の中に説かれている。それは「すべての善人も悪人も、浄土に生まれるものは、皆、阿弥陀仏の大願業力に導かれて浄土へと往生する。それをたとえるのなら、私たちを浄土へ運んでくれる素晴らしい船のようなものであり、浄土へ往くのを邪魔する様々な障害から、守って下される大きな弥陀の手のようなものである。私たちは、その手につつみこまれて、浄土へと往生していくのである。これが阿弥陀仏の大願業力に乗ずるということである」
また、「南無阿弥陀仏」の"南無"とは帰命のことである。帰命とは、命に帰すということで、命とは阿弥陀仏のお約束、お約束とは、必ず浄土に往生させるというお約束の事です。そのために、私たちの心を浄らかにしようとして下されている。つまり、私たちの心を浄化して下される働き、それが命。次に帰すとは、その働きに従う事。私たちには我執があり、変化することを嫌う心がある。だから、阿弥陀仏のお力を受けると、心が石の様に固くなり、はねつけてしまう。これが弥陀の本願を疑う心、疑情。しかし、どんなに疑情によって、はねつけていても、水で石に穴が空くように聴聞を続けていくと、やがて我執が破れ、弥陀の本願力を受け取れるようになる。これが命に帰すということ。これはどんなに頭で納得しても、心が受け付けなければ、命に帰すことはできない。我執が破れる所まで続けて聴聞していかなければ得られないものです。次に発願廻向とは、発願とは、阿弥陀仏が本願を建てられたことを言います。阿弥陀仏は十八願の中に"若不生者不取正覚"と必ず浄土へ往生させるという本願を建てられました。その本願を果たすために、弥陀は私たちが浄土に往生するために必要な功徳を自らが集められ、それを与えることによって浄土へ往生させようと誓われたのです。これが発願廻向です。だから、私たちはその功徳を受け取る一つで浄土へと往生することができます。それが南無であり、帰命なのです。
次に「南無阿弥陀仏」の"阿弥陀仏"とは、私たちが浄土へ往生するために必要な功徳が収まったもの、また、その功徳を私たちに与えようとする働きを阿弥陀仏と言います。その阿弥陀仏の働きに従い、浄土へ往く身になったことを南無というので、阿弥陀仏に南無した人は、必ず浄土へ往生できるのである。
また、「増上縁に摂し生まれる」とは、「大無量寿経」の中の弥陀の本願の中に教えられている。それは、「私が仏になりましたならば、すべての人と約束をします。心が浄らかになって浄土へ往きたいという願いが起きて、そのために、浄土に往生するための功徳が収まった私の名をほめたたえ、それを続けたならば、私の本願力によって守られ、導かれ、浄土まで連れて行ってあげよう。若し浄土に生まれることが出来なければ、私は仏にはなりません。」これは、往生を願い念仏を続けている人が、いよいよ命が終わる時に、弥陀の本願力によって浄土へ往生することができる。だから「増上縁に摂して生まれる」というのです。
また、善人であっても、悪人であっても関係なく、弥陀のお力によって、心を浄らかにしたいという願いを起こして、そして、心を浄らかにする事によって、浄土へ往生することができる。これが「摂生増上縁」です。

※私たちは阿弥陀仏に救われて浄土に往生すると聞くと、自分は何も変わらないままで、肉体が死ぬだけで浄土へ往生できると思ってしまう。しかし、実際はそうではなく、阿弥陀仏のお力とは、私の心に浄土へ往生したいという願いを起こさせる力。浄土へ往生したいという願いとは、心を浄らかにして煩悩から離れたいという心。では、何故、煩悩から離れたいと思うのか?それは、煩悩とは自分を傷付け、他人を傷付ける心。だから、自分が苦しい時は、それは煩悩によって苦しんでいるのです。たとえば、ある人が誰かから、ひどい事を言われて傷付いたとします。この時、その人はひどい事を言われたから、自分の心が傷付き苦しんでいると思っています。しかし、仏教では、この人が苦しんでいるのは、ひどいことを言われたからではなく、煩悩によって苦しんでいると教えられています。では、この場合、煩悩とは何かというと、自分の事を良く思われたいという執着です。この人が、もし自分の事をよく思われたいという執着がなかったら、たとえ、ひどい事を言われたとしても苦しむことがなかったのです。だから、仏教では、ひどいことを言った人を恨むのではなく、ひどい事を言われた時に傷付く執着の心を反省しなさい、と教えられるのです。仏教を聞き、執着によって苦しんでいると知らされた人は、当然、執着をなくしたい、煩悩を離れたい、という心になります。この心を起こしてくれる働きが、阿弥陀仏のお力にあるのです。真実が知らされたら、煩悩から離れずにはおれない。この真実を知らせる働きが、阿弥陀仏のお力にはあるのです。

(真宗聖典p291)
又云く、「門々不同にして八万四なり。無明と果と業因とを滅せんが為なり。利剣は、即ちこれ弥陀の号なり。一声称念するに罪みな除こる。微塵の故業、智に随ひて滅す。覚へざるに真如の門に転入す。娑婆長劫の難を免るることを得ることは、特に知識釈迦の恩を蒙れり。種々の思量巧方便を以て、選びて弥陀弘誓の門を得しめたまへり」と。{以上抄要}

 また、仏教の教えは、その教えごとに同じではなく、八万四千もの膨大な教えがある。しかし、その教えの目的は、無知の闇を破り、真実を知らせることによって、自分の思想の間違いに気付かせ正していく。それによって、苦しみを生み出す負の連鎖を断ち切り、苦しみを取り除いていく。つまり、思想的な間違いを正す事によって苦しみを取り除く、それが仏教の目的です。ところが、頭でどんなに分かっていたとしても、自分の間違いを正す事はなかなか出来ない。それは、業力が邪魔をして、間違いを受け入れる事が出来ないからである。弥陀のお力は鋭い剣のようなもので、説法によって弥陀のお力が届くと、業力を断ち切り、真実を知らせて、間違った思考を正してくれる。過去から引きずってきた無数の悪業も、説法や聴聞によって智慧を頂き、真実が知らされることによって滅してしまう。この身になった人は、弥陀のお力によって真実が見えるので、罪を滅していく事が出来る。だから、教えを導く善知識がいなくても、煩悩を滅し仏のさとりを開くことができるのである。しかし、この身になるまでには、善知識・釈迦の永い間のお導きがあって、やっとなることが出来るのである。善知識が様々な教えを説き、心を育て、導いてくれることによって、弥陀の救いにあずかることができたのである。

(真宗聖典p291)
しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の音なり。]また帰説(きさい)なり、説の字は、[税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]是を以て帰命は本願招喚の勅命なり。発願回向といふは、如来、すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。『経』(大経)には「即得」といへり、釈には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて、報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。

 以上の根拠から、「南無阿弥陀仏」の「南無」とは、「帰命」のことである。この「帰命」の「帰」とは「至」という意味である。「至」とは、川の水が最後に海に流れ出る様に、流れに身を任せて最終的に目的地に到達することを意味している。ある所に向かって進んでいき、最終的に目的地まで到達すること。それを「至」と言われるのです。また、この「帰」には、それを心の明かりとして当て力にする、信じるという意味。また、弥陀を信じて、身を任せるという意味がある。

※ここで帰とは、どういう意味なのであろうか?帰とは、心から従うということ。それは、自分の心を支えてくれる力があるから、そして、その事を心から信じたために、自分の身を任せる事ができた状態を言います。しかも、弥陀の本願とは、必ず浄土へ生まれさせるという本願、その本願力を信じうちまかせたら、浄土へ浄土へと流され始めます。浄土へ流されるとは、心が浄らかになっていく、また、自分でないものに変わっていくということである。私たちにとって、自分でないものに変わっていく、それがたとえ、浄らかな仏という存在であっても、不安な事だと思います。そういう意味で、弥陀のお力を心から信じた人でなければ、弥陀に帰することはできないと思います。

 次に、私たちを浄土へと導く力は、どのように私たちのところに届くのかと言えば、弥陀の呼び声という形で届き、善知識の説法という形で届きます。そして、それは、私たちの心を明らかにして下されることによって、自分の誤りを正してくれます。次に「命」とは、弥陀の浄土へ往生させる働き、それは、浄土から弥陀が私たちを招き、引き入れようとする働きです。では、その働きは、どのように私たちに働くのかと言えば、善知識が教えを説くことによって、浄土へ通じる道ができ、浄土へ浄土へと流れていく流れができあがる。その流れこそ、弥陀が浄土へと招き寄せる力であり、私たちの想像をこえた力であり、その力に身を任せることによって、浄土へと往く事が出来るのである。ですから「帰命」とは、弥陀の浄土へ往生させたいという本願を果たすために、弥陀が浄土へとまねき寄せようとするお力であり、そのお力を心から信じ、うちまかせたことをいうのです。次に「発願廻向」とは、弥陀が浄土に往生させたいという願いを起こし、私たちが浄土に往生するために必要な功徳を集められ、私たちに施すことによって浄土へ往生させようとする心である。

※ここで浄土へ往生するためには、何が必要か?それは善である。浄土には善を集め、心を浄らかにしなければ往く事はできない。だから、諸仏方は、浄土へ往生したいという者に対して、善をしなさいと勧められるのです。ところが、私たちは煩悩が強いために、善をしようとしても、煩悩のために心が崩れ、せっかく集めた善を失ってしまう。だから、そんな私たちを弥陀は、浄土に必要な善を与えることによって、浄土へ往生させようと誓われたのです。だから、私たちは、弥陀の集められた善を受け取る一つで浄土へ往生することができるのです。その善を受け取って、浄土へ浄土へと近付いていく身になったことを、帰命と言います。そこで、善を受け取ったらどうなるか?勿論、その善は自分のものになる。善を受けたら、穢れが少なくなる。心から浄らかになっていきます。

 次に「即是其行」とは、すなわち選択本願である。選択本願とは、阿弥陀仏の十八願であり、そこには、至心信楽になった人が、浄土へ往生したいという願いを起こし、念仏を続けていったならば、必ず浄土へ往生させてみせる、と誓われている。つまり、弥陀の浄土へ往生させたいという願いこそ、その行であり、その行に心から南無する事によって、浄土へ往生することができるのです。

「必得往生」とは、浄土へ往生し、もう三悪道に戻ることのない不退転の位へと到達できる身となったことを言われています。つまり、浄土往生できる身ということです。これを「経」には「即得」と教えられ、「釈」には「必定」と言われています。ここで、即得の「即」とは、今まで弥陀の本願力をさえぎっていた無明の闇を破られ、弥陀の本願力を聞見し、邪見を正見へと変えていく事ができる身となった、時間の極まりを、即と言います。

※無明の闇が破られると、どうなるのか?無明の闇が破れると明るくなる。明るくなるとは、仏の光明に照らされて、間違いを間違いだと認められる様になる。間違いを間違いだと認められたら、その間違いを正し、正しい考え方へと変えていく事が出来る。どんなに、間違った考え方を抱えていたとしても、その間違いを正すことができれば、やがて正しい考え方へと変わり、仏になる事ができる。このような身になったことが初地。間違いを間違いだと認め、自己を反省し、正していける。それが無明の闇が破れたということ。

 「必ず定まる」の「必ず」とは、審、つまびらかに定まるということ。つまびらかとは、細かい所までハッキリとあいまいな事がないこと。つまり、微塵の疑いもなく、浄土へ往生できると知らされることを言います。では、なぜそのように疑いなく信じられるのかと言えば、"然"、しからしむ。しからしむとは、そのようになっていく。自分の力ではなく、阿弥陀仏のお力によって、浄土へ往生していくから、自分の力なら、自分の気持ちが続かず、やめてしまえば、そこで止まってしまう。でも、阿弥陀仏の力によって、浄土へ往生していくなら、自分が止めようとしても止まらない、1日1日と浄土へ近付いてしまう。では、どのようにして浄土へ往生していくのかと言えば、"分極"わかちきわむる。ここでわかつとは、切り離すこと。私たちが迷いの世界へと戻ってしまう、その気持ちを断ち切り、もう穢土へと戻れなくすること。私たちは、どんなに浄土へ往生したいと思っても、我の力によって穢土へと自然に戻ってしまう。その目に見えない力を、阿弥陀仏は断ち切って下される、それが分極。この弥陀のお力によって、私たちは浄土へ往生しようという気持ちが起こる。もう戻ることができないから、進むしかない、それが金剛心。それが私の身に起きたことを、必定というのです。

(真宗聖典p296)
憬興師のいはく、「如来の広説に二つ有り。初めには広く如来浄土の因果、即ち所行・所成を説きたまふ。後には広く衆生往生の因果、即ち所摂・所益を顕したまふ」と。

 憬興師という人は、次のように教えられている。「大無量寿経には、大きく2つの事が教えられている。初めの上巻には、阿弥陀如来が浄土をつくられた因果が説かれている。つまり、浄土を実現するために、どのような種蒔きをされたか、そして、その種蒔きによって実現された浄土とは、どの様な世界か、という事が教えられています。また、下巻には弥陀によってつくられた浄土の働きによって衆生がどの様に往生していくか、その因果が説かれています。つまり、弥陀が私達をどのように導き、また、どのような苦しみを取り除いて下されるかが説かれています。」

※大無量寿経には、何が説かれているのか?それは一言で言えば、目に見えない弥陀の浄土へ往生させる働きと、そのお力を受けることによって、私たちの心は、どのように変化し浄土へと往生していくか、ということが説かれています。上巻では、法蔵菩薩が本願を建てられ、修行されることによって、浄土をつくられ、仏となられることが説かれています。ここで、法蔵菩薩をどうしても私たちを助けて下さる方と見てしまいます。しかし、この上巻で大切な事は、法蔵菩薩と同じ身に私たちもなれる、ということです。この上巻で、法蔵菩薩が感じ述べている事は、そのまま私の身に起きる事であり、そのような身にする力が私たちに働いているのです。

(真宗聖典p296)
又云く、「『悲華経』の〈諸菩薩本授記品〉に云く、〈その時に宝蔵如来、転輪王を讃じて言はく、《善い哉、善い哉、{乃至}大王、汝、西方を見るに百千万億の仏土を過ぎて世界あり、尊善無垢と名づく。彼の界に仏まします、尊音王如来と名づく。{乃至}今、現在に諸々の菩薩の為に正法を説く。{乃至}純一大乗清浄にして、雑はること無し。その中の衆生、等一に化生す。亦、女人及びその名字なし。彼の仏世界の所有の功徳、清浄の荘厳なり。悉く大王の所願の如くして異なけん。{乃至}今、汝が字を改めて無量清浄と為す》〉と。{以上}『無量寿如来会』(上)に云く、〈広く、是の如き大弘誓願を発して、皆已に成就したまへり。世間に希有なり。是の願を発し已りて、実の如く安住して、種々の功徳具足して、威徳広大清浄の仏土を荘厳したまへり〉」と。{以上}

 「悲華経」の「諸菩薩本授記品」に次のように教えられています。その時、宝蔵如来は転輪王をほめたたえ、仰いました。「あ〜素晴らしい事だ。大王よ。あなたが求める西の世界は、ここから百千億の仏土を過ぎた、その先にある。名前を「尊善無垢(穢れなき尊い善に満ちた世界)」と言います。その世界には「尊音王如来(尊き音によって人々を導き、浄土へ往生される仏)」今も諸の菩薩のために仏法を説いておられる。その教えは説法を聞いた菩薩をゆり動かし、その菩薩だけでなく、その菩薩の周りの人たちも含めて、清らかにしていくものでありました。だから、その菩薩の働きによって、その教えを聞いた人々も、心がこの穢土を離れ、浄土へと生まれる事が出来るのです。また、その浄土に生まれた者は、人を上下によって差別するのではなく、その浄土には、そこに来た人を浄らかにする功徳が満ちており、大王の本願の通りの世界が出来ている。今、こんな素晴らしい浄土を持つあなたを「無量清浄(清らかにする功徳を果てしなく持っているもの)」とお呼びしましょう。」
「無量寿如来会」の中には、次のように教えられています。この様な多くの人を相手とされた本願を起こされて、その本願を皆、完成されました。このようなことは、世の中にはないことである。この浄土には、本願の通りの功徳が満ちており、その浄土に往生した人を清らかにしてくれる力がある。

(真宗聖典p296)
福智の二厳成就したまへるが故に、つぶさに等しく衆生に行を施したまふ。己が所修を以て、衆生を利したまふが故に、功徳を成ぜしめたまへり。

※福智二厳…福徳荘厳と智慧荘厳。福徳荘厳とは六波羅蜜行の中、布施・持戒・忍辱・精進・禅定の五をいい、智慧荘厳とは般若波羅蜜をいう。

 その浄土の功徳は、六度万行を完成されたことによる功徳であり、その功徳を分け与えることによって、自分の事しか考えておらず、迷い苦しんでいる人たちに菩提心を起こし、自利利他円満させて、助けようとされているのです。

※六度万行を完成されて得た徳を与えれば、私たちに六度万行したいという心が起きる。

(真宗聖典p296)
久遠の因によりて、仏に値ひ、法を聞きて慶喜すべきが故に。

 阿弥陀仏が何としても浄土へ往生させたいと久遠の間、働きかけられていることによって、私たちは会い難い善知識にお会いすることができ、その善知識から、法を聞き、信心を頂き、喜ぶ身となれるのです。

※阿弥陀仏がどんなに助けてあげたいと働きかけられていても、私達の目にはその阿弥陀仏のお姿が見えないから届かない。だから、阿弥陀仏は仏を送り出され、その仏から教えて頂くことによって、阿弥陀仏の功徳を私たちに届けようとされたのです。

(真宗聖典p297)
人聖に、国妙なり。誰か力を尽さざらん。善を作して生を願ぜよ。善に因りて既に成じたまへる、自ら果を獲るにあらず。故に自然と云う。貴賤を簡ばず、皆、往生を得しむ。故に著無上下と云ふ。

 浄土とは、そこに住んでいる人は、皆、聖人のように素晴らしく、国もまた素晴らしい。その浄土の素晴らしさを知りながら、どうしてそこへ往くために力を尽くさない事があろうか。だから、皆さん、浄土へ往生するために徳を積みなさい。しかし、功徳を積むと言っても、あなたが何か善いことをして、徳を身につけることによって、浄土へ往生するわけではない。阿弥陀仏の浄土には、既にあなたが往生するために必要な功徳が収まっている。だから、その功徳を頂いていくことによって、徳を積み、浄土へ往生することができるのです。自分の種蒔きによって浄土へ往生するのではないので、これを自然というのです。功徳を頂いて往生するので、貴い人も賤しい人も関係なく、皆、往生することができるのです。だから、阿弥陀仏の救いに、上下はないのです。

(真宗聖典p297)
「〈易往而無人其国不逆違自然之所牽〉(大経・下)とは、因を修すれば即ち往く。修すること無ければ生ずること尠し。因を修して来生するに終に違逆せず。即ち易往なり、と。

 弥陀は私たちを浄土へ往生させるために、善を与えようとされている。だから、その善を受け取れば、どんな人も浄土へ往生できる。でも、反対に受け取らなければ、往生する事はできない。受け取ることさえ出来たなら、誰でも往生できるので、「易往(往き易き所が浄土である)」

(真宗聖典p297)
又云く、本願力の故に、とは即ち往くこと誓願の力なり。満足願故とは、願として欠くること無きが故なり。明了願故とは、之を求むるに虚しからざる故なり。堅固願故とは、縁として壊すること能はざるが故なり。究竟願故とは、必ず果し遂ぐるが故なり。

 「本願力故」とは、私たちが浄土へ往生できるのは、弥陀の本願力が働いているからである。「満足願故」とは、弥陀の願いが完全に果たされている、ということです。「明了願故」とは、弥陀の本願は身体でハッキリと体験し、知らされるものであるから、この弥陀の本願を求めていくと、必ず身体で知らされてくる。「堅固願故」とは、一度、阿弥陀仏に救われたのなら、どんな雑縁がやってきて誘惑したとしても、浄土を求める人の歩みを止める事はできない。「究竟願故」とは、弥陀に救われた人は、必ず仏になれるのである。

(真宗聖典p297)
又云く、総じて之を言はば、凡小をして欲往生の意を増さしめんと欲する故に、須らく彼の土の勝れたることを顕すべし、と。

 今まで言ったことを大体まとめて言うならば、穢れた世界にとらわれ、欲を満たすこと以外に考えられない人に、浄土へ往生したいという心を起こさせ、その心を強くしていくために、弥陀の浄土の素晴らしさが説かれているのです。

(真宗聖典p297)
又云く、既に此の土にして菩薩の行を修す、と言へり。即ち知んぬ、無諍王、此の方に在すことを。宝海も亦た然なり、と。

 すでに「阿弥陀仏は浄土で、その浄土が穢れないように、六度万行を実践されている」だから、よく知りなさい。阿弥陀仏が浄土(宝海)におられ、清らかにし続けていることを。

(真宗聖典p297)
又云く、仏の威徳広大を聞くが故に、不退転を得るなり、と。

 善知識を通して、阿弥陀仏の素晴らしいお徳を聞いていく事によって、正定聚の身になり、もう三悪道へ堕ちることのない身になるのである。

※どうしたら浄土に往生することができるのか?ここでは、「阿弥陀仏の素晴らしいお徳を聞く事によって浄土へ往生できる」と教えられているが、阿弥陀仏の素晴らしいお徳とは何であろう?それが疑問です。

(真宗聖典p297)
『楽邦文類』に云く、「総官の張?のいはく、〈仏号、甚だ持ち易し、浄土、甚だ往き易し。八万四千の法門、この捷径にしくは無し。但能く清晨俛仰の暇を輟めて、遂に永劫不壊の資を為すべし。是れ則ち力を用ふること、甚だ微にして、功を収むること、すなわち尽くること有ること無し。衆生、亦、何の苦しみ有りてか、自ら棄てて為せざるや。ああ、夢幻にして真に非ず、寿夭、保し難し。呼吸の頃、即ち是れ来生なり。一度、人身を失ひぬれば万劫にも復らず。此の時、悟らざれば、仏、衆生を如何したまはん。願はくは深く無常を念じて、徒に後悔を貽すこと勿れ。浄楽の居士張?、縁を勧む〉」と。{以上}

 「楽邦文類」に張?が、次のように教えられています。念仏を続けることは、とても簡単な事だ。だから、浄土もまた、往き易い所である。仏教には八万四千もの膨大な教えがあるが、この弥陀の本願ほど早く救われる教えはない。だから、聖道仏教を実践し、救いを求める事はやめて、弥陀の本願を信じ煩悩によって崩れない功徳を頂きなさい。これは自分で修行をし功徳を積むのではないので、わずかな努力によって大きな功徳を積むことができる。人々よ、何の苦しみがあって、自分の力を頼る気持ちを捨てないのか?あ〜、この世は夢幻のようなもので、どんなに間違いないと信じていたものも、無常によって儚く崩れ去ってしまう。だから、「これだけは間違いない」と本当に頼れるものも何一つない。そして、それは人間の命も同じである。私たちが当たり前の様にしている呼吸も、吸った息が吐き出せなかったら、吐いた息が吸えなかったら、その時から後生が始まる。一度この肉体を失ったら、もう永遠と呼べる間、帰っては来れません。今、人間として生きている今、悟りを開かなかったならば、仏様と雖も私たちをどうすることもできない。願うことなら、いつやってくるか知れない我が身の無常を深く見つめて、自分の人生を無駄にした、と後悔を残すことはしないでください。張?は弥陀の本願を勧められた。

(真宗聖典p298)
台教(天台)の祖師山陰[慶文法師]のいはく、「良に仏名は真応身よりして建立せるが故に、慈悲海よりして建立せるが故に、誓願海よりして建立せるが故に、智慧海よりして、建立せるが故に、法門海よりして建立せるに由るが故に、若し、但、専ら一仏の名号を称すれば、則ち是れ具に諸仏の名号を称するなり。功徳無量なれば能く罪障を滅し、能く浄土に生ず。何ぞ必ず疑を生ぜんや」と。{以上}

 台教の祖師である、慶文法師が次のように言われている。仏名は、仏様の手によってつくられたものだから、また、海のような慈悲の心によってつくられたものだから、また、菩薩の誓われた本願によってつくられたものだから、また、海のような智慧によってつくられたものだから、また、様々な仏教の教えによってつくられたものだから、専ら一仏の名号を称える事は、そのまま諸仏方の名号を称えることと同じである。名号の中には無量の功徳が収まっているので、仏名を称することによって、功徳を頂くことによって、罪障を滅し、浄土に生まれる事ができる。こんな素晴らしい教えがあるのに、どうして疑いを起こすのでしょうか?

※仏名を称するとは、ただ単に仏様の名前を口で言う事だと考えていいのだろうか?と思います。本来、仏名を称する事には、大変な功徳があるのだから、それを称えることによって、心の穢れが取り除かれ、煩悩から離れていくはずである。しかし、実際、口で称えていても、心に何か変化がある訳ではない。では、仏名を称するとは、どういうことであろうか?私は功徳を受け取った後の喜びを、仏名を称する、と言われているのではないかと思います。たとえば、阿弥陀仏のお力によって苦しみが取り除かれ、その喜びから「あ〜阿弥陀仏の素晴らしいお力によって救われた」と言うことが、仏名を称することだと思います。だから、苦しみが取り除かれる前に、どんなに「あ〜阿弥陀仏は素晴らしい」と言っても、それは単なる言葉であって、私を救う力はありません。だから、どんなに、仏名に一切の慈悲、一切の誓願、一切の智慧が収まっていたとしても、それを受け取らなければ、苦しみが取り除かれる事はありません。

(真宗聖典p298)
律宗の祖師、元照の云く(観経義疏)「況んや我が仏の大慈、浄土を開示して慇懃に勧属したまうこと、諸の大乗に遍し。目に見、耳に聞きて、特に疑謗を生じ、自ら甘んじて沈溺して、超昇を慕はず。如来説きて、憐憫すべき者と為したまへり。良にこの法の特り、常途に異なることを知らざるに由りてなり。賢愚を択ばず、緇素を簡ばず、修行の久近を論ぜず、造罪の重軽を問はず。但信心を決定せしむれば、即ち是れ往生の因種なりと。{以上}

 律宗の祖師元照は、次のように言われました。言うまでもなく、弥陀は「苦しみ悩む者を救ってあげたい」という気持ちから、どんな人をも救う浄土をつくられ、私たちにそんな素晴らしい世界があることを懇ろに勧め、浄土へ導き入れようとされている。しかし、浄土の教えを目に見て耳に聞いた者は、「そんな修行もしないで、浄土に往けるはずはなかろう」と疑いや謗りを起こし、自分の考えにとらわれ、弥陀の救いを願う事がない。弥陀はこのような人に対して、「あわれむべき者」と言われている。それは、弥陀の本願こそこの世の常識を超えた教えであることを知らないからである。弥陀の救いは、弥陀の功徳を受け取ることによって浄土へ往生するので、弥陀の相手は、智慧のある賢い者も愚かな者も、また、出家も在家も関係なく、その人がどれだけ修行をしてきたかも問題にせず、どれだけ罪をつくってきたかということを聞く事なく、ただ弥陀から菩提心を頂く一つで、それが因となって、往生することができるのである。

(真宗聖典p298)
今、浄土の諸経、並びに魔を言わず。即ち知んぬ。この法、魔なきこと明らけし。山陰の慶文法師の『正信法門』に之を弁ずること甚だ詳らかなり。今、為に具さに彼を引かん。問うて曰く、人ありて云く、《臨終に仏・菩薩の光を放ち、台を持したまへるを見たてまつり。天楽異香、来迎往生す。並びにこれ魔事なり》と。この説、如何ぞや。答へて云く、『首楞厳』によりて、三昧を修習することあり。或は陰魔を発動す。『摩訶衍論』によりて三昧を修習することあり、或は外魔(天魔をいふなり)を発動す。『止観論』によりて三昧を修習することあり、或は時魅を発動す。これら並びに、これ禅定を修する人、その自力に約して、まづ魔種あり、定めて撃発を被るが故にこの事を現ず。
もしよく明らかに識りて、おのおの対治を用ゐれば、即ち能く除遣す。若し聖の解を作せば、みな魔障を被るなりと。[上に此の方の入道、則ち魔事を発すことを明かす。]今、所修の念仏三昧に約するに、乃ち仏力を憑む。帝王に近づけば敢えて犯すもの無きが如し。蓋し阿弥陀仏、大慈悲力・大誓願力・大智慧力・大三昧力・大威神力・大摧邪力・大降魔力・天眼遠見力・天耳遥聞力・他心徹鑑力・光明遍照摂取衆生力、ましますに由りてなり。是の如き等の不可思議功徳の力まします。豈、念仏の人を護持して、臨終の時に至るまで障碍なからしむること能はざらんや。もし護持をなさずは、則ち慈悲力、何ぞましまさん。もし魔障を除くこと能ずは、智慧力・三昧力・威神力・摧邪力・降魔力、また何ぞましまさんや。もし鑑察すること能ずして、魔、障をなすことを被らば、天眼遠見力・天耳遥聞力・他心徹鑑力、また何ぞましまさんや。『経』(観経)に云く、《阿弥陀仏の相好の光明遍く十方世界を照らす。念仏の衆生をば摂取して捨てたまはず》(意)と。もし念仏して臨終に魔障を被るといはば、光明遍照摂取衆生力、また何ぞましまさんや。況や念仏の人の臨終の感相、衆経より出でたり。皆是れ仏の言なり。何ぞ貶して魔境とすることを得んや。今、為に邪疑を決破す。当に正信を生ずべし〉

 今、浄土仏教の教えでは、行者を堕落の道へと誘う魔について問題にしない。このことをよく知って下さい。つまり、浄土の教えでは、魔が問題にならないことが明らかであるからだ。このことについて、山陰の慶文法師の「正信法門」に、このことが細かく述べている。今、その場所を引いて、その教えを明らかにしたいと思います。お尋ねします。「ある人が言われた事ですが、臨終に仏や菩薩が光明を放ちながら台を持ち、天から音楽が流れ、素晴らしい香りをさせながら、あなたを迎えに来ることを見て往生する。つまり、阿弥陀仏が臨終に迎えに来て下されることによって、浄土に往生する。それは魔事である。この説はどうでしょうか?」

※魔…魔の働きは何か?それは3つある。
1つは心をかき乱すという。我々が落ち着いた心、静かな心、嬉しい心でいるのをかき乱す。それを擾乱(じょうらん)という。我々の心をかき乱して、不安定な心にし、恐怖心を起こさせる。心をかき乱すのが、魔のしわざである。
もう1つは障碍という。妨げをする。私が読書をする、勉強をする、善いことをやる。落ち着いて仕事をしようと思っているのに、それを邪魔する。これを障碍という。
私が病気をしたり、体が弱ったりしている時に悪魔が近付いて来て、私を死の淵に引きずり込む。それを破壊(はえ)という。私の一生を終わりにする。これが魔のしわざである。
「マクベス」では魔女が出てきて、マクベスの心をかき乱す。彼の心に王を殺して自分が王位を奪おうという野心をおこさせる。それは魔女の言った「マクベス様、あなたは未来の王様です」という言葉に引きずられて生まれる。この魔女のためにマクベスは妨げられ。遂に死に引きずり込まれる。仏教では魔について、2つという。1つは外魔。他の1つは内魔という。魔には、外と内がある。外魔とは、他化自在天の大魔王を言います。これは我々の住む欲界の一番頂上にいる。内魔には五蘊魔、煩悩魔、死魔がある。心をかき乱すのが五蘊魔の働き。死を招くのが死魔の働きである。五蘊魔とは、私が体を持っており、それが色々なものを受け取り、深く蓄積していく。それが外に出て、恐怖を感ずるようになっている。私の心をかき乱すのは私である。私の心が向こうの物を受け取って乱れるのである。煩悩魔とは、私の内なるもの。一つには我見(私の誤った考え、自己中心の考え)を持っているから、ちょっとしたことが妨げとなる。

魔事…魔の働きというものは、具体的にどういうことか。これを魔事という。魔の事業というか、魔が具体的に働くことを魔事という。無事終了という言葉があるが、これは、「魔事なく終わった」という意味なのです。魔事について「十住論」の調伏品に、次のように述べてある。
(1)仏法を聞いて、すぐ喜びがでない。
(2)聞法して喜んでいても、途中で心が散り動く。
(3)読書や聞法の時に、傲慢になったり、心が散乱したり、妄念に襲われたり、あるいは、投げ出したりする。

※魔事とは何であろう?仏教とは、法鏡である。だから、仏教を聞いていくと、自分のありのままの姿が知らされていく。私たちは、誰しも自分の事をよく見たいという欲目がある。だから、誉められると嬉しいし、それが自分だと思おうとする。でも、仏教はそんな欲目一杯の私に対し、真実の姿を知らせる。その真実の姿とは、煩悩に穢れた自分の事しか考えていない者であり、弱い存在。仏教を聞いていくと、そんな自分が見せつけられる。それは私たちの欲目にとって都合が悪く、認められない姿。だから、様々な煩悩が起きて、仏教を聞かせないようにする。それが魔事ではないかなと思います。

 お答えいたします。「首楞厳経」の教えに従って、心を静めようとしたならば、心に陰魔が起き、心を散り乱してしまう。「摩訶衍論」の教えに従って、心を静めようとしたならば、天魔が心にやってきて、散り乱してしまう。「止観論」の教えに従って、心を静めようとしたならば、時魅が心にやってきて、散り乱してしまう。このような教えによって、心を静めようとする人は、自力の心で何とかしようと求めていくので、心の中にある魔の種が、心を静めようとすればするほど、心を乱してしまう。この自分の心にある魔の存在をよく知って、その心を退治したならば、心を静める事ができる。仏道を求めるというのはこの魔との戦いであり、仏のさとりを求めている人で魔を起こさない人はいない。それでは、念仏三昧について考えてみますと、念仏三昧をする人は、仏の力がかかり、その力を信じ、身を任せることによって、煩悩から離れていく教えである。この仏力とは、帝王に近付いていく者に対し、誰も手出しをすることはできないように、阿弥陀仏には、
大慈悲力(苦しんでいる人に、その苦しみを取り去り、浄土へと連れて行く力)、
大誓願力(すべての人を浄土へ連れて行くという願いを果たさせようとする力)、
大智慧力(真実を明らかに知り、それを私たち一人一人に合わせて説き伝える力)、
大三昧力(心の穢れを取り去り、心を静めようとする力)、
大威神力(人間の力を遥かに超えた物凄い力)、
大摧邪力(邪悪なものを打ち砕く力)、
大降魔力(心を堕落させようとする様々な誘惑を退け、仏道を進ませて下される力)、
天眼遠見力(私たちがどこにいようとも見守って下される力)、
天耳遥聞力(私たちの苦しみの声を、どこに私たちがいたとしても聞いて下される力)、
他心徹鑑力(私たちの心をまるで鏡で自分の姿を見る様に、見えない心をハッキリと見ることが出来る力)、
光明遍照摂取衆生力(弥陀の光明は大宇宙を照らし、そのお力によって、人々を摂め、浄土へと導く力)、
このようなお力があるので、弥陀に救われた人は、魔によってまた三悪道に落ちてしまう事なく、浄土へ往生することができるのです。このように弥陀には不思議なお力があるので、どうして念仏をしている人を浄土に往生する所まで、その心を守って下さらない事があるでしょうか?もし、守って下さらないというのなら、弥陀に慈悲力があるなんて言いません。もし、心に魔が起き、それによって三悪道へ堕ちてしまうことがあるならば、弥陀に智慧力・三昧力・威神力・摧邪力・降魔力があるなんて言いません。もし、自分の姿が正しく見えなくなって、魔に何時の間にか心が奪われてしまう事があるならば、天眼遠見力・天耳遥聞力・他心徹鑑力があるなんて言いません。「観無量寿経」には、「阿弥陀仏のお力は大宇宙に働いている。だから、そのお力を受け取ることが出来た念仏の人は、そのお力によって守られ、決して道を踏み外し苦しみの世界へと戻ってしまうことはない」と教えられています。だから、もし弥陀のお力を受け取り念仏するようになった者が、浄土に往生する前に、魔によって心が崩れまた三悪道に戻ってしまう事があるならば、弥陀に光明遍照摂取衆生力があると、どうして言えるのでしょうか。ましてや、臨終に浄土へ往生出来るということは、観無量寿経だけでなく様々なお経にも教えられている事であり、皆、これ仏様の言葉である。だから、これを悪く受け取って、どうして魔障なのだと言えるのであろうか。今、このような間違った考えをハッキリと破りました。だから、皆さん、どうか阿弥陀仏の救いを信じて、聞き求めて下さい

 

 
 
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