教行信証@ p267-278
 
 

教行信証

(真宗聖典p267)
謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の回向有り。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向に就いて、真実の教行信証あり。

 謹んで、この親鸞が教えている浄土真宗という教えを考えてみますと、それは阿弥陀仏の私たちの心を変えてゆく2つの働きである。一つは浄土へと導く働き、そして、二つ目は、浄土へ往った者がこの娑婆へと戻り、人々を浄土へと導くようになる働きである。その中で、浄土へと導く働きについて、真実の教行信証があります。

(真宗聖典p267)
夫れ真実の教を顕さば、則ち『大無量寿経』是れなり。

 浄土へ私たちが往くための真実の教は、『大無量寿経』に説かれている教えである。

(真宗聖典p269l5)
『無量寿如来会』に言わく、阿難、仏に白して言さく、「世尊、我如来の光瑞希有なるを見たてまつるがゆえに、この念を発せり。天等に因るにあらず」と。仏、阿難に告げたまわく、「善いかな、善いかな。汝、今快く問えり。よく微妙の弁才を観察して、よく如来に如是の義を問いたてまつれり。汝、一切如来・応・等正覚および大悲に安住して、群生を利益せんがために、優曇華の希有なるがごとくして、大士世間に出現したまえり。かるがゆえにこの義を問いたてまつる。また、もろもろの衆生を哀愍し利楽せんがためのゆえに、よく如来に如是の義を問いたてまつれり」と。已上。

 「無量寿如来会」の中に次のように教えられています。阿難はお釈迦様に申し上げました。
「世尊、私はお釈迦様の今までにない光り輝く奇瑞のお姿を拝見したのでお尋ねしたのです。誰かに頼まれたものではありません。」
阿難の答えに対し、お釈迦様は
「そうか。それは大変素晴らしい事だ。そなたは大変良い質問をした。このように質問する事ができたのも、そなたが日頃から苦しみを取り除こうとして相手の事を良く見て説法をしていたからである。また、阿難よ、すべての仏様方は大悲の心で人々を幸せにするために、この世に仏のみ心を受け継ぐ菩薩を誕生させようとしている。この世に菩薩が誕生する事は、まるで三千年に一度しか咲かない優曇華が花開くように珍しい事であり、そんな菩薩が誕生したからこそ、私に喜びがあふれ、そなたが尋ねたのだ。また、そなたが私に尋ねてくれたお蔭で、私は説法が出来る。その説法の功徳は多くの人を救う事になるであろう。そなたは、苦しみ悩む人たちの事を思って、その人たちを救うために私に説法させるために尋ねたのであろう。」

(真宗聖典p269r7)
『平等覚経』に言わく、仏、阿難に告げたまわく、「世間に優曇鉢樹あり、ただ実ありて華あることなし、天下に仏まします、いまし華の出ずるがごとしならくのみ。世間に仏ましませども、はなはだ値うことを得ること難し。今、我仏に作りて天下に出でたり。もし大徳ありて、聡明善心にして仏意を知るによって、もしわすれずは、仏辺にありて仏に侍えたてまつるなり。もし今問えるところ、普く聴き、諦らかに聴け」と。已上。

 「平等覚経」の中に次のように教えられています。お釈迦様は阿難に仰いました。
「世の中には優曇鉢樹がある。それは、実をつける事があっても、花を咲かせる事はない。天下に仏が現れるというのは、それは丁度、優曇花が咲くようなものだ。しかし、せっかく世の中に仏が現れたとしても、その仏にお会いする事はなかなか難しい事だ。今、私は仏となって天下に現れた。阿難よ、そなたは大変な徳がある。そなたは智慧明らかにして、善き心を持っていたので、私の心を知る事ができたのだ。何の理由もなく、私のそばで仕えていた訳ではない。今から、そなたの質問に対して答えるので、よく聞きなさい」

(真宗聖典p269r3)
憬興師の云わく、
「今日世尊住奇特法」というは、神通輪に依って現じたまうところの相なり、ただ常に異なるのみにあらず、また等しき者なきがゆえに。
「今日世雄住仏所住」というは、普等三昧に住して、よく衆魔・雄健天を制するがゆえに。
「今日世眼住導師行」というは、五眼を導師の行となづく、衆生を引導するに過上なきがゆえに。
「今日世英住最勝道」というは、仏、四智に住したまう。独り秀でたまえること、匹しきことなきがゆえに。
「今日天尊行如来徳」というは、すなわち第一義天なり。仏性不空の義をもってのゆえに。
「阿難当知如来正覚」というは、すなわち奇特の法なり。
「慧見無碍」というは、最勝の道を述するなり。
「無能遏絶」というは、すなわち如来の徳なり。
已上。

 「今日世尊奇特の法に往したまえり」というのは、仏の智慧を体得された方がその智慧によって迷いが破られ、それが三業に現れたすがたである。ただ普通の人と異なっているだけではない。その素晴らしさは、この世に等しきものがいないからである。
「今日世雄住仏所住」というのは、仏の世界を心で念じ、それによって楽がしたいと思う心が起こったり、欲に流れたりする事が無くなるからである。
「今日世眼住導師行」というのは、五眼(肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼)をもってこの世界をありのままに見ることができ、そこからその物の本質や本当の価値、また、因果関係を知る事ができるので、それによってどんな人も誤りなく導く事ができるので、これを「導師の行」と名付けるのです。
「今日世英住最勝道」というのは、仏とは唯識を正しく理解し、それによって空をさとり、我を離れ、阿頼耶識が大円鏡智(鏡のようにあらゆるものを差別なく現し出す智)、末那識(自分、自分と自分に執着し、自他を区別する心。迷いを生み出す根本)が平等性智(びょうどうしょうち:唯識をさとる事によって、自分の見ている世界は自分の心に映し出された世界であり、それに向かって発した感情はすべて自分の元に返ってくる事が知らされる事によって、自他の区別なく平等に見る事が出来る智)それによって、欲を満たす事や楽をする事しか考えていなかった意識が、欲望や楽をする事の本当の価値が分かり、今まで自分が大事だと思っていた事が実はたいした事が無い事だと分かり、今まで気付かなかった自分にとって本当に大事な事が知らされ、それに向かって心が集中し向かっていくようになる事が妙観察智(みょうかんざっち)、そして、意識が変わる事によって外界の事象にとらわれ振り回されるだけだった前五識が心が求めているものを得るために手足のように動く成所作智(じょうしょさち)と変わるのである。このように、心がガラリと変わるので、比べるものが無く秀でているのである。
「今日天尊行如来徳」といういのは、まず天尊というのは、五天(世天(人王)、生天(三界の諸天)、浄天(声聞・縁覚)、義天(菩薩)、第一義天(仏))の中で最も尊い第一義天の事であり、なぜ尊いのかと言えば、永遠不変の真如法性(世界をありのままに見せる仏の光、私たちは無明に覆われているために、この仏の光をはねつけてしまい見る事が出来ない)をさとったからである。無明を破り真如法性の働きがある事をさとった事を第一義と言い、このさとりを開いて初めて本当の意味で我から離れ、空をさとる事ができる。それまでは、自我に対するとらわれから離れる事ができず、どこどこまでも自分のためにしか頑張る事ができない。そのために第一義をさとるまでは、いくら自利利他の実践をしていてもそれは自分の幸せのためであり、その心を離れて他人の幸せのために行動する事はできない。この第一義をさとった人のみが自他を平等に見る事ができるので、本当の意味で相手の幸せのために行動する事ができる。これを如来の徳を行ずると言います。
「阿難まさに知りなさい。仏を仏たらしめる仏のさとりというのは」というのは、即ち、仏が知らされる大変珍しい素晴らしい教えの事である。
「仏の持っておられる智慧の眼はたとえどんなに煩悩が起きたとしても、目が曇るというのはない」というのは、先程、四番目に説かれた最勝の道について述べられたものであり、それは第一義をさとり、仏性の働きを受けて我から離れていくので、どんなに煩悩が起きたとしても、それによって目が曇る事がないのである。
「さえぎりとめることはできない」というのは、仏性の働きによって自利利他をしていくので、どんな感情が心に起きたとしても、また、どんな災難が降りかかったとしても、それによって仏の利他の決意が揺らぐ事はないのである。

(真宗聖典p271)
大行といふは、則ち無碍光如来の名を称するなり。

 大行というのは、阿弥陀仏の本願力によって説法することである。

(真宗聖典p271)
この行は、即ち是れ諸の善法を摂し、諸の徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。故に大行と名く。

 阿弥陀仏のお力によって、させられる説法には、諸の善法が摂まっており、それを説く者も聞く者も共に、徳を身に付けていくことができる。この説法こそ、自分だけでなく、周りの人も速やかに浄土へと往生する方法であり、この説法は、阿弥陀仏の海へ流れていく川の様なものである。だから、この説法を大行と名付けるのです。

(真宗聖典p271)
設ひ我仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、悉く咨嗟して、我が名を称せずは、正覚を取らじ。

 私が仏になりましたならば、私の力で救われた大宇宙の諸仏方を皆、喜んで説法させてみせましょう。若し、そうできなかったならば、私は仏になりません。

(真宗聖典p271)
我仏道を成ずるに至りて、名声十方に超えん。究竟して聞こゆる所なくば、誓うて正覚を成らじ。衆の為に宝蔵を開きて、広く功徳の宝を施さん。常に大衆の中に於て、説法獅子吼せん。

 私が仏の道を進むようになったならば、私の呼び声を聞き説法する者が大宇宙に現れるだろう。若し、私の呼び声が届かない所があったならば、私は仏にはなりません。人々のために法の蔵を開いて、広く功徳の宝を施しましょう。その宝は、常に大衆の中で獅子がほえるように説法することによって、あなたに届けましょう。

(真宗聖典p271)
十方恒沙の諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃嘆したまふ。

 大宇宙の諸仏方が、皆共に阿弥陀仏の不思議な物凄い功徳をほめたたえ、説法されている。

※阿弥陀仏は大宇宙の諸仏方を動かし、私達に弥陀の功徳を届けさせようとされている。

☆では、弥陀の威神功徳とは何か?

(真宗聖典p272)
無量寿仏の威神極無し。十方世界の無量無辺不可思議の諸仏如来、彼を称嘆せざるはなし。

 阿弥陀仏のお力は、はかりしれない。だから、大宇宙の仏方は、阿弥陀仏をほめたたえずにはおれない。

(真宗聖典p272)
其の仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲はば、皆悉くかの国に到りて、自ら不退転に至る。

 阿弥陀仏の本願力とは、諸仏方によって伝えられた弥陀の説法を聞いて往生したいと思ったならば、皆悉く浄土に往生し、自ら一人の諸仏になって、弥陀の説法を始められる。

※弥陀の功徳とは、浄土へ往生させる力。それは諸仏の説法を通して、私達に伝えられる。

(真宗聖典p275)
我が名を聞かん者、諸々の善本を修して、わが界に生れんと欲せん。願はくは、其の捨命の後、必定して生を得しめん。唯、五逆と聖人を誹謗すると、正法を廃壊するとをば除かん。

 弥陀の説法を聞いた者が、諸の善の根を阿頼耶識に薫習して、その功徳によってやがて善をするようになり、それによって弥陀の浄土に生まれられるようにしよう。願うことなら、あなたの迷いの我という命を捨てた後、必ず浄土へ生まれさせてみせましょう。ただし、五逆の者と善知識を誹謗する者、そして、仏法を破壊する者は除きますよ。

☆弥陀の説法には、私たちに善をさせていく力がある。その善によって、浄土へ往生することができる。

(真宗聖典p275)
しかれば称名は能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を満てたまふ。

 弥陀の説法は、人々の愚かさの闇を破り、人々を浄土へ導きたいという弥陀の願いを満たしてくれる。

(真宗聖典p275)
『十住毘婆沙論』に曰く、ある人の言く、「般舟三昧および大悲を諸仏の家と名く、此の二法より、諸々の如来を生ず」と。此の中に般舟三昧を父とす、また大悲を母とす。復次に般舟三昧は、是れ父なり、無生法忍は、是れ母なり。
『助菩提』の中に説くが如し、「般舟三昧の父、大悲無生の母、一切の諸の如来、是の二法より生ず」と。

 『十住毘婆沙論』の中に、次のように教えられています。ある人が言われていたことには「念仏三昧と大悲は、諸仏を生み出す家である。この2つの法により、諸の如来が、この世界に現れる」この言葉を受けて、念仏三昧を父とし、大悲を母とする。(これによって、諸仏という子が誕生する。つまり、念仏三昧の父と大悲の母に育てられ、私たちは、諸仏へと成長するという事です。)また、別の言葉で言うならば、念仏三昧は父であり、無生法忍は母である。

☆ここで、大悲の母とは何だろうか?これは、私を根底から支えてくれるもの。仏教では、これを涅槃と言われています。私たちは理性によって、自分の存在を意味付けしています。そして、「自分は価値ある人間だから、生きていてもいいんだ」と自分の存在を肯定しようとしているのです。言葉を変えると、私たちは、それ程、自分の存在に対し危うさを感じ、希薄な存在だと感じているのかも知れません。だからこそ、自分の存在を肯定してくれる何かが欲しい。たとえ周りの人が自分の事を「価値がない者だ」と思ったとしても、これだけは自分の存在を肯定してくれるもの。それを仏教では涅槃と言われ、自分の心の殻を破り外に出た者しか知らされないものだと教えられています。浄土真宗は、この涅槃の存在を知り、それに身をゆだねていく。これを信心と言います。どんなに心の外に涅槃という世界が広がっていたとしても、心の殻に閉じ籠って外へ出ようとしなければ、知る事はできません。だからこそ、仏教では、この心の殻を破り、外へ出るために善が必要だと教えられています。つまり、安心感が増すものが善であり、反対に、それをすることによって不安になっていくものが悪です。

 『助菩提』の中に説かれているように、「念仏三昧を父とし、大悲無生(涅槃)を母として、すべての如来は現れる」

(真宗聖典p276〜278)
世間道を転じて、出世上道に入るとは、世間道とは即ち是れ凡夫所行の道と名く。転とは休息にと名く。凡夫道とは、究竟して涅槃に至ること能わず、常に生死に往来す。是を凡夫道と名く。出世間とは、是の道に因りて、三界を出づることを得るが故に、出世間道と名く。上とは、妙なるが故に、名づけて上と為す。入とは正しく道を行ずるが故に、名づけて入と為す。是の心を以って初地に入るを歓喜地と名く。
問うて曰く、初地、何か故ぞ、名けて歓喜と為るや。
答へて曰く、初果を得れば究竟して涅槃に至るが如し。菩薩是の地を得れば心常に歓喜多し。自然に諸仏如来の種を増長することを得。是の故に是の如きの人を賢善者と名くることを得。初果を得るが如しとは、人の須陀?道を得るが如し。よく三悪道の門を閉じ、法を見て、法に入り、法を得て、堅牢の法に住して、傾動すべからず、究竟して涅槃に至る。見諦所断の法を断ずるが故に、心大いに歓喜す。設ひ睡眠し懶堕なれども二十九有に至らず。
一毛を以って百分と為し、一分の毛を以って大海の水を分ち取るが如し。二三滴の苦はすでに滅するがごとし。大海の水は余の未だ滅せざるもののごとし。二三滴の如き心、大に歓喜す。菩薩も是の如し。初地を得おわるを如来の家に生ずと名く。一切天・竜・夜叉・乾闥婆、{乃至}声聞・辟支等の、共に供養し恭敬する所なり。
何を以っての故に、是の家、過咎有ること無きが故なり。世間道を転じて、出世間道に入り、ただ仏を楽敬すれば、四功徳処を得、六波羅蜜の果報の慈味を得、諸の仏種を断ぜざるが故に、心大に歓喜す。
是の菩薩の所有の余苦は、二三の水滴の如し。百千劫に阿耨多羅三藐三菩提を得といへども、無始生死の苦に於いては、二三の水滴の如し。滅すべき所の苦は大海の水の如し。是の故に此の地を名けて歓喜と為す。(地相品)
問うて曰く、初歓喜地の菩薩、此の地の中に在りて、多歓喜と名く。諸の功徳を得るが為の故に歓喜を地と為す。法を歓喜すべし、何を以って歓喜するや。
答へて曰く、常に諸仏及び諸仏の大法を念ずれば、必定して希有の行なり。是の故に歓喜多し。
是の如き等の歓喜の因縁の故に、菩薩初地の中に在りて心に歓喜多し。諸仏を念ずといふは、燃灯等の過去の諸仏、阿弥陀等の現在の諸仏、弥勒等の将来の諸仏を念ずるなり。常に是の如きの諸仏世尊を念ずれば、現に前に在すが如し。三界第一にして能く勝れたる者無し。是の故に歓喜多し。諸仏の大法を念ずというは、略して諸仏の四十不共法を説かん。
一つには自在にして飛行、意に随ふ。
二つには自在にして変化、辺なし。
三つには自在にして所聞、無碍なり。
四つには自在にして無量種の門を以て、一切衆生の心を知す。{乃至}
必定の諸の菩薩を念ずというは、若し菩薩、阿耨多羅三藐三菩提の記を得れば、法位に入り、無生忍を得るなり。千万億数の魔の軍衆、壊乱すること能わず。大悲心を得て、大人法を成ず。{乃至}是を念必定の菩薩と名く。
希有の行を念ずといふは、必定の菩薩、第一希有の行を念ずるなり。心に歓喜せしむ。一切凡夫の及ぶこと能はざる所なり。一切の声聞・辟支仏の行ずること能はざるところなり。仏法無碍解脱、及び薩婆若智を開示す。又十地の諸の所行の法を念ずるを名けて心多歓喜と為す。是の故に菩薩初地に入ることを得れば、名けて歓喜と為す。
問うて曰く、凡夫人の未だ無上道心を発さざる有り、或は発心する者有り。未だ歓喜地を得ず。
是の人、諸仏及び諸仏の大法を念じ、必定の菩薩及び希有の行を念じて、亦歓喜を得ん。初地を得る菩薩の歓喜と、此の人と、何の差別か有る。
答へて曰く、菩薩初地を得ば、其の心歓喜多し。諸仏無量の徳、我亦定んで当に得べしと。
初地を得る必定の菩薩は、諸仏を念ずるに無量の功徳有り。我当に必ず是の如きの事を得べし、何を以ての故に。我すでに此の初地を得て、必定の中に入れりと。余は是の心有ること無し。是の故に初地の菩薩、多く歓喜を生ず。余は、しからず。何を以ての故に、余は諸仏を念ずといへども、是の念を作すこと能はず、我必ず当に作仏すべしと。譬えば転輪聖子の、転輪王の家に生れて、転輪王の相を成就して、過去の転輪王の功徳の尊貴なるを念じて、是の念を作さん。我今亦是の相有り。亦当に是の豪富尊貴を得べしと。心大きに歓喜せん。若し転輪王の相無ければ、是の如きの喜び無からんが如し。必定の菩薩、若し諸仏及び諸仏の大功徳・威儀尊貴を念ずれば、我是の相有り、必ず当に作仏すべし、とて即ち大に歓喜せん。余は是の事有ること無けん。定心とは深く仏法に入りて、心動かすべからず、と。

 煩悩に塗れた世界を転じて、煩悩を離れた素晴らしい世界に入るとは、世間道(煩悩に塗れた世界)とは、智慧を持たぬ愚かな者が、それぞれ自分の考えこそ正しいと思って、行動している世界を言います。「転」とは、休息ということです。
「凡夫道」は、どれだけその中にいたとしても、涅槃へと入る事はできない。常に生死を繰り返し、迷い苦しみ続ける。これを「凡夫道」と言います。
「出世間」とは、この道に入ることによって、三界から離れることが出来るので、これを「出世間道」と言います。「出世上道」の「上」とは、この上なく優れているので、「上」と言います。「入」とは、煩悩を離れて浄らかな道を進むことが出来るので、「入」と言います。この心になることによって初地へと入ることを「歓喜地」と言うのです。
それでは、初地に入ったことを、なぜ「歓喜」と言うのですか?それは、初地に入ったならば最後には涅槃に到達することが出来る。菩薩はこの地を得たならば、心は常に歓喜が多い。自然に仏の種が自らの中で育ち、仏へと近付いていく。この故に、この様な人を「賢善者」と名付けるのです。「初果を得たようなものである」とは、人の須陀?道を得るようなものである。

※須陀?…小乗における修行階位、四果中の初果。三界の迷いを断ち、四諦を明確に認識した境地。

 因果の道理を否定して三悪道へと戻ることはなく、真理を見ることができ、その真理が間違いないと体で知らされ常に真理を宗として行動するので、必ず涅槃へと到達することができるのである。真理を見ることを妨げていたちっぽけな自分の我にとらわれていた心を断ち切るので、心が大いに喜ぶのです。

※ここで歓喜とは、我に縛られていた自分の心が自由になった喜びである。私たちは様々なものに縛られて生きている。たとえば、生きるために自分の心を犠牲にして僅かなお金を得るために必死に働いている人もいれば、地獄へ堕ちることへの恐怖から宗教を信じ、その宗教で教えられている規律に従うことによって心を安心させようとしている人もいる。しかし、これも結局はその宗教で教えられている規律に縛られ、自分を苦しめることになってしまうのです。また、世間体に縛られ、自分のやりたいこともできず、人の顔色ばかりうかがっているのも、苦しいですよね。このように私たちは何かに縛られ、心が自由になれず、苦しんでいます。そして、そこから抜け出そうとして、お金や権力を手に入れて力によって自由を勝ち取ろうとしますが、実際は力を手に入れれば入れる程、自分を縛るものが増え、苦しまなければならなくなるのです。もし、自分の心を縛る我という縄から解き放たれたとしたら、どれだけ心が軽くなるでしょうか。その喜びを、ここで「見諦所断の法を断ずるが故に、心大いに歓喜す」と言われているのです。

 たとえ、気の張りが無くなって、眠ったり怠惰な生活を送ったりしても、それによって、我に心が奪われ、また迷いの世界に戻ることはない。しかし、初地に入ったとしても目指すべき仏の境地と比べたならば、まだ一本の毛を百本にさき百本にさいた毛の一本を手にとって、その毛を大海の水に浸し、そこについた水滴のような苦しみしか、まだ取り除いていない。まだ、滅していかなければならない苦しみは、大海の如く残っている。わずか二、三滴の水のような心が、大きに喜んでいるだけである。菩薩も同じようなものである。初地になったということは、如来の家に菩薩という赤ちゃんが誕生したものです。その菩薩に対して、すべての天人も龍も、夜叉も乾闥婆も(乃至)声聞・辟支等も共に供養し、うやうやしく敬う所である。

※乾闥婆…香を食べるとされ、神々の酒ソーマの守り神とも言う。仏教では帝釈天の眷属の音楽神とされている。

 それは何故かというと、この諸仏の家には、過咎が全くないからである。

※ここで「家に過咎無し」とは、p275に次のように教えられています。

(真宗聖典p275)
家に過咎無しとは、家清浄なるが故なり。清浄とは、六波羅蜜と四功徳処と方便と般若波羅蜜と善慧と般舟三昧と大悲と諸忍と、是の諸法は、清浄にして過有ること無きが故に、家、清浄と名く。是の菩薩、此の諸法を以て、家と為すが故に、過咎有ること無し。

 諸仏の家に罪咎がないというのは、その家が浄らかであるからです。ここで、「浄らか」というのは、そこで菩薩が実践する六度万行・四功徳処、そして、方便や般若の智慧・善慧・念仏三昧・大悲、また諸忍が、自分の都合や我執がなく清らかであって穢れが全くないので、「家が浄らかである」というのです。菩薩は、この浄らかな教えを実践することによって家とするので、罪咎が全くないというのです。

☆四功徳処…菩薩が法を説き給うに入用な利他の功徳の事で、諦(真実なること)、捨(ものを施すこと)、滅(自らの身口意の悪業悪心を滅して、名聞利益の心無く法を説きたまうこと)、慧(智慧)の四法をいう。

@諦…真実不虚の義。時代によって変わることのない物事の真理。また、仏様から見た世界のすがた。世界を自分の都合を入れることなくありのままに見ること。そして、そこからその物の本質を見抜き普遍の法則(因果関係)を発見すること
A捨…我執を捨て、自分の都合を入れることなく、ありのままに物事を見ることができること
B滅…貪欲・瞋恚などの煩悩を滅し、煩悩によって他人や自分を傷付けることがなくなったこと
C慧…唯識の真理をさとり、自他の区別なく物事を平等に見ることができる力

☆般若…実践を通して体で知らされた智慧
☆善慧…我執なく、過去の一切の物事にとらわれることなく物事を判断し、選びとる力

※つまり、菩薩とは、自分の我執にとらわれることなく、ありのままに教えを説き、その力によってどんな人も苦しみを取り除くことが出来るので、大宇宙の神々がほめたたえ敬うのです。

 我執にとらわれ物事をありのままに見ることができなかった世間道を離れ、我執を離れ、智慧を身に付けて、迷いから離れていく出世間道に入ったならば、そこで阿弥陀仏を見て、その阿弥陀仏を喜び敬えば、他力によって四功徳処を得て六度万行を実践させられるので、その素晴らしい果報によって、人を慈しみ、育てる喜びが起きる。そして、諸の仏種が自分の心から、消えることがないので、その心は大いに喜ぶのである。この菩薩にとって、抱えているところの残りの苦しみは、2,3滴の水のようなものです。勿論、苦しみがほとんど無くなった訳ではないので、百千劫かかって仏のさとりを開くといえども、この菩薩にとって、その苦しみは2,3滴の水のように感じる。滅すべき苦しみは、大海の如くあっても、他力によって自然と取り除いていくので、障りとならないのである。このように自分で努力することもなく、自然と他力のお力に流されて、仏のさとりへと導かれていくので、このさとりを歓喜と言うのです。
では、お尋ねします。「初歓喜地の菩薩は、このさとりを開くと喜びが多いので、多歓喜と言います。諸の功徳を得るのでこのさとりを歓喜とするのは分かりました。今度は、このような功徳を得ることが出来る法の働きについて、教えて頂きたい」
それについて、お答えしましょう。「初地に入った菩薩は、常に阿弥陀仏や阿弥陀仏の教えを心で念ずることが出来るので、必ず仏のさとりを開くところまで進んでいけるので、希有の行いである。この故に喜びが多い。このような因縁があって、初地の菩薩は心に喜びが多いのです。ここで「阿弥陀仏を念ずる」とは、お釈迦様を初め、この世にあらわれた仏様方が、常に心で念じていた阿弥陀仏を初地の菩薩も念じることを言います。

※ここで、阿弥陀仏を念じるとは、初地に入らなければ、見ることができないものが阿弥陀仏です。ですから、煩悩を断じてない凡夫が、どんなに阿弥陀仏を想像しようとしてもできません。

 常に阿弥陀仏を念ずることが出来る人は、今、目の前に阿弥陀仏がおられるようなものです。このような人は、迷いの世界の中で最も素晴らしい人であり、この人以上に優れている人はいないので、常に喜びの心が多いのです。
次に「諸仏の大法を念ず」とは、阿弥陀仏のお力を頂いて自由自在に法を説くことができることを言います。たとえば、空を自由自在に飛んでいけるように教えを説き、相手に合わせて自由自在に教えを変化させることができる。そして、人の話を聞く時は自分の計らいを入れずに聞くことができ、無量の教えの力によってすべての人々の心を知ることができる。(乃至)
「必定の諸の菩薩を念ず」というのは、もし、菩薩が仏を見ることによって、必ず仏のさとりまで、到達できる身となったならば、真如が知らされ、無生法忍をさとり、心が魔によって奪われまた我執にとらわれる穢れた心の世界に戻ることはない。大慈悲心を得て、仏の道を進んでいかれる。これを「念必定の菩薩」と言うのです。

☆大人の法…大人とは大丈夫人のことで、仏・菩薩のこと。その方が体得しておられる法を、大人の法と言います。ここでは、法と共に実践されている姿を「大人の法を成ず」と理解して、仏の道を進むこと。仏道とは何か?仏教の目的は抜苦与楽。苦しみを抜き心を楽にしてあげるのが、仏教の目的です。だから、仏とは、その人生をひたすら、人々の苦しみを抜き、幸せを与えていく事にささげている方なのです。この真理が知らされ、実践されていることを「大人の法を成ず」と言われるのです。

 「希有の行を念ず」というのは、必定の菩薩は、最も素晴らしい性質を具えた人の行いを念ずるなり。それはとても嬉しいことであり、これはすべての凡夫がマネをすることが出来ないものであり、すべての声聞や縁覚が行うことの出来ないものなのです。それは、仏教で教えられる何ものにもとらわれない自由の境地、そして、すべての智慧を明らかにされる。

※つまり、希有の行とは、何ものにも束縛されることない自由な心の境地であり、また、人々の苦しみを取り除く為のすべての智慧を持ち、人々の苦しみを抜き去っていく行いを言います。

 また、菩薩が仏になる為に必要な六度万行の行を念ずることができるので、具体的にどのように実践して仏へと進んでいけばいいか分かる。
以上のようなことから、「心に喜びが多くなる」と言われるのです。この故に、菩薩が初地に入ったならば、これを「歓喜」と言うのです。
それでは、また、お尋ねします。「まださとりを開いていない凡夫は、我執を断ち切っていないので、仏のように苦しみを取り除いて人々を救っていきたいという菩提心を起こしていない人もいる。また、菩提心を起こしている人もいる。それでも、まだ歓喜地を得ていない。この人は、阿弥陀仏を念ずることによって阿弥陀仏の智慧を頂き、それによって必定の菩薩と同じように希有の行を念じ実践することができるので、また歓喜の心が起きる。初地を得た菩薩の歓喜と、この人と何か違いがあるのでしょうか?」
それについてお答えしますと、「菩薩が初地を得たならば、その心は歓喜が多い。なぜなら、阿弥陀仏の持たれる無量の徳を、私は必ずやがて身につけることができるから。それは初地を得た必定の菩薩は、阿弥陀仏を念ずることによって阿弥陀仏と同じ徳を身につけ、やがて阿弥陀仏と同じ仏の身になれる。だから、初地の菩薩は、念仏によって必ず仏になることができるのです。」

※仏を念ずるとは、仏の智慧を念ずることになり、それによって、自分の中にある真理を知らない愚痴の心が破れ、智慧が身についていく。智慧は、その人の間違った行動の習慣を正し、正しい習慣へと変えていくので、その結果、仏の徳が身についていくのです。念仏とは、智慧を頂く方法であり、頂いた智慧によって、迷いの心を破り正見させていく。智慧こそ、人々を仏へと変えていく方法なのである。その智慧は、諸仏の説法を通して人々に伝わり、邪見を破り正見へと変えていく。説法を通して、間違った価値観を正し、正しい物の見方ができるようにしていく。それによって、浄土へ人々を導いていくのである。

 初地の菩薩以外は、この心は全くない。この故に、初地の菩薩は多くの歓喜が起きるのである。それ以外の人は、そうではない。なぜかと言うと、初地にまだ入っていないものが、どんなに阿弥陀仏を念じたとしても、それは本当の阿弥陀仏ではないので、それによって仏の徳が身につくことはない。
それは譬えるならば、転輪聖子が転輪王の家に生まれて、転輪王となるべき素晴らしい相を持っていたとする。その転輪聖子が、自分と同じように転輪王の相を持っていた。過去の転輪王が素晴らしい功徳を身につけていたことを念じて、「私も過去の転輪王たちと同じように、転輪王の相がある。私もやがて豊かさや気品を身につけるであろう。」そう思うと、心は大いに喜ばずにはおれないでしょう。もし、自分に転輪王の相がなかったならば、このような喜びは起きないようなものである。
必定の菩薩が、阿弥陀仏やその阿弥陀仏の持たれている素晴らしいお徳を念じたならば、「私も阿弥陀仏の持たれている徳が身についてきている。だから、やがて私も仏になれるであろう」このように、仏に一日一日と近付く自分を見て、大いに喜ばずにはおれない。初地に入ってないものは、阿弥陀仏を念じたとしても、それによって、智慧が身についたり、煩悩から離れたりすることはない。「定心」とは、常に仏法を物差しとして考え、他の考えを入れて、物事を考えることがないことを言います。

(真宗聖典p278)
信力増上とは、信は聞見する所ありて、必受して疑無きに名く。増上は殊勝に名く。問うて曰く、二種の増上有り。一つには多、二つには勝なり。今の説、何者ぞ。答へて曰く、此の中に二事ともに説く。菩薩初地に入れば、諸の功徳の味を得るが故に、信力転増す。是の信力を以て、諸仏の功徳無量、深妙なるを籌量して、能く信受す。是の故に此の心亦多なり、亦勝なり。深く大悲を行ず、とは、衆生を愍念して骨髄に徹入するが故に、名けて深と為す。一切衆生の為に仏道を求むるが故に名けて大と為す。慈心とは常に利事を求めて衆生を安穏にす。慈に三種あり、と。

 「信力増上」というのは、この「信」とは、阿弥陀仏を心で念じて、それによって智慧を頂き、その智慧に対して、今までの自分の考えにとらわれてはねつけることなく心から従い、実践へと移していくことを言います。「増上」とは、とりわけ優れていることを言います。
それではお尋ねします。「今、"増上"という言葉の意味には、"多くなっていく"という意味と、"すぐれている"という意味の二つがあります。ここで信力増上の増上とは、この二つの意味のどちらでしょうか?」
お答えします。「ここで言われる増上には、二つの意味が共に含まれています。なぜなら、菩薩は初地に入ったならば、阿弥陀仏を念ずることによって智慧を頂き、その智慧によって実践することによって身体で教えの素晴らしさが知らされ、それによって感謝の心や喜びの心が起きる。その喜びによって、ますます仏法を信じていく心が強くなっていくのです。そして、この信じていく力によって、より一層、阿弥陀仏を念じ、智慧を頂き、それを心から信じ、従うようになる。だから、この増上という意味には"多くなっていく"という意味があるのです。また、それは大変素晴らしい事なので、"すぐれている"という意味もあるのです。次に「深く大悲を行う」とは、人々を思う気持ちが、表面的な感情ではなく心の底からそう思うので、これを「深く」と言います。また、すべての人々が救われるところまで仏道を求め続けていくので、「大」と言われるのです。そして、大悲とは大慈悲のことであり、その中の慈の心とは、常に自ら智慧を身につけていくように努力して、その身に付けた智慧によって、人々を安らかな穏やかな心にしていくのである。また、慈に3つある。」

 
 
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